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どちらの結末にも同じくらい転びうるのでなければ、本当の信念の危機とは言えない。
世の中には、初めて聞く十歳の子でも欠陥を指摘できるような信念を、持ち続ける人が大勢いる。微妙な誤りの話ではない。十歳の懐疑心を逃げずに向ければ、執着のない心には手放すのは朝飯前だろう。Premise Checkerはこう言った。「神という発想が科学の時代まで出てこなかったなら、そんな考えを発明し、何かを説明したふりをするのは、例外的に奇妙な人間だけだっただろう」。
それなのに、有能な科学の専門家、さらにはその分野の大革新者でさえ、この時代になっても、その懐疑をうまく使えていない。オーマンの合意定理で知られるノーベル賞受賞者ロバート・オーマンは、正統派ユダヤ教徒だ。彼もどこかの時点で信仰を疑ったに違いない、と私はかなり自信を持って言える。だが、うまく疑うことはできなかった。私たちは、思うほど頻繁には考えを変えない。
これは骨の髄まで恐ろしく感じるべきことだ。世界一流の科学者で、しかもベイズ数学に通じていて、なお、先入観のない十歳児にも馬鹿げているとわかる信念を退け損ねることがある。長年心の中で腐り続けた信念が、どれほど難攻不落の守りを固められるかを示している。
砦を築いた誤りを打ち負かすには、何が必要なのか。
だが、それが誤りだと知った時点で、すでに打ち負かされている。難問は「長く持ってきた誤った信念Xをどう退けるか」ではなく、「長く持ってきた信念Xが誤りかどうかを、どう知るか」だ。自分への正直さが最ももろくなるのは、どちらが正しい道かわからないときである。だから問いはこうなる。
どちらの結末にも同じくらい転びうる、本当の信念の危機を、自分の中にどう作るか。
宗教は、誰にも想像できる試験例だ。(無神論者の親に生まれた読者は、人生の根本的な試練を一つ経験し損ねたので、信仰のある友人を考えるという、不十分な代用品で我慢するしかない。)だが、共感をすべて断ち切り、有神論者を邪悪な変異体だと思うようになったなら、その人たちが本当に直面する内面の試練は想像できない。次の問いを問えなくなる。
「宗教を信じる人が、その宗教から抜け出すには、どんな一般的な戦略に従わなければならないか?」
この課題を見て、もう無神論者の定番の主張を並べ始めている人もいるだろう。「神の存在にベイズ的証拠はないと認めなければ」「聖書での神の行動を弁護するため、道徳上どんなごまかしをしているか見なければ」「オッカムの剃刀を学ばなければ――」
違う! 違う、違う、違う!ずっと前から考えていた論点を吐き出すだけの、そんな反復練習こそ、まさに人を今の宗教の中にとどめる思考様式だ。出来合いの考えから離れず、脳が明白な答えをあまりに速く補ってしまい、初めて見るようには見られないなら、信念の危機に取り組むことは、まずできない。
十分若いうちに『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を読む人が少ないだけなのかもしれない。だが私は、技術畑の人も含め、多くの人はここまでメタの水準に上がる議論を追うのに苦労すると気づいた。悲観的な日には、ラクダのこぶは二つなのだろうかと思う。
明示的に指摘されても、対象の水準の「オッカムの剃刀を使え! 君の神は不要な信念だと気づかなければ!」から、メタの水準の「いつものように心がパターンを補完するのを止めてみよう!」へ、飛躍を追えないような人もいる。合理主義者の友人が皆オッカムの剃刀をよいものとして語り、それが頭にすぐ浮かぶのと同じように、宗教家には「神の道は神秘的で、理解できると思うのは思い上がりだ」という、友人にも認められた明白な答えがある。だから「オッカムの剃刀を使う」が採るべき一般的な戦略だと考えるのは、有神論者が「信仰を持つ」が一般的戦略だと言うようなものだ。
「でも、でもオッカムの剃刀は、本当に信仰より優れている! アイスクリームの好みが違うという話ではない! 歴史を見れば、オッカム流の推論のほうが信仰よりはるかに実り多かったと、誰でもわかる――」
どれも本当だ。だが、的外れだ。問題は、それを言うあなたが、すでに頭にある定番の正当化をまくし立てていることだ。信念の危機の課題は、いつもの結論が間違いで、いつもの正当化も間違いかもしれない場合を扱うことにある。Xの定番の正当化が「オッカムの剃刀!」で、Xをめぐる信念の危機を起こしたいなら、剃刀は本当にXを支持するのか、その理解は正しいかを問うべきだ。十分深く疑いたいなら、単純さがこの場合に歴史上よく機能した基準なのか、機能すると合理的に期待できるのか、なども問うべきだ。宗教家に、「信仰」はXのよい正当化だという信念を疑えと助言するなら、自分にも、「オッカムの剃刀」はXのよい正当化だという信念を、同じくらい強い努力で疑えと助言すべきだ。
(最小記述長やソロモノフ帰納法によるオッカムの剃刀の定式化を知らず、それが多世界解釈やシミュレーション仮説を禁じると思っている人々を考えてほしい。その人たちは自分の定式化と、なぜ単純さがよいのかという考えを疑う必要がある。いまあなたが「オッカムの剃刀!」で正当化した、争点となっているXも、重力ほど明白なオッカム的勝利ではないだろう。)
「オッカムの剃刀!」がいつもの返答、定番の返答、友人全員の返答なら、本当の信念の危機を起こすには、脳がそのパターンを瞬時に完成させるのを止めるべきだ。
こんな規則を考えるほうがよい。「懐疑者が何と言うか想像しよう。それへの自分の答えに何と言うか想像しよう。そして、もっと答えにくい別のことを何と言うか想像しよう」。
あるいは、「最も痛い思考を、考えようとしてみよう」。
そして何より、次の規則だ。
「有神論者が自分の宗教を退けるのに必要なだけの、必死の努力を注ごう」。
そこまで努力していないなら、自分にわかる限りでは、頭の中が宗教と同じくらい馬鹿げたものに満ちている可能性があるからだ。
宗教を捨てるのに必要なほど、身をよじるような必死の努力で合理的になろうとせずに、ロバート・オーマンが神を信じている世界で、どうして何かを信じてよいと思えるのか。
誰だったか忘れたが、人が信仰を捨てられるのはある年齢までで、それを過ぎればあらゆる反論への答えを持ち、手遅れになる、と言った人がいる。そんなあり方を超えなければならない。これは合理主義者としての強さを試す、非常に厳しい試練だ。だが通れなければ、十歳児より弱いことになる。
繰り返すが、信念が誤りだとわかった時点で、それはすでに敗れている。だから話しているのは、宗教が間違いだと結論したあとで、宗教的な育ちの影響を取り消すための、身をよじるような努力ではない。鎖を捨てるべきか保つべきかを見極めるための必死の努力だ。どちらの道を取るべきかわからないとき、自分への正直さは最ももろい。そのとき、こじつけは明白な罪には見えないからだ。
すべての疑問に、全面的な信念の危機が必要なわけではない。だが次の場合には考えるべきだ。
- 信念が長い間、心の中にある。
- 周囲を、よく知った議論や反論の雲が取り巻いている。
- 時間、お金、公の発言といった埋没費用を注ぎ込んでいる。
- その信念が感情的な帰結を持つ。ただし、だから誤りになるわけではない。
- 人格全体に入り込み、混ざり合っている。
どの警告サインも、即座の反証ではない。これらの特徴は、信念をさまざまな危険にさらし、誤っているときに退けるのを難しくする。だが、ローマ教皇のカトリック信仰にも、リチャード・ドーキンスの進化生物学への信念にも当てはまる。だからといって、アイスクリームの好みの違いにすぎないと言っているのではない。深く持つ信念は、深く持つというだけで、それを支える証拠と関係なくすべて同じ水準だと思うのは、理解の浅い人だけだ。目的は浅い信念を持つことではなく、現地を反映する地図を持つことだ。
もちろんこれを強調するのは、「自分の信念には警告サインがある」と認めるのに、「自分の信念は間違いだ」と言う必要はない、と伝えるためだ。
だが、これらの警告サインが確かに示すのは、効果的に疑うため、普通以上の努力が要る信念だ。実際に誤りなら、本当に退けられるようにするための努力である。効果的に疑えないところでは、あなたは盲目だ。脳が信念を無条件に持ち続けるからだ。入る光子と無関係に網膜が同じ信号を出すなら、その目は見えていないと呼ぶ。
いつ、信念の危機に取り組むべきだろうか。
また、有神論者への助言を考えよう。内側に少し揺らぎを感じながら、まだ信念は確かだという理由をこじつけているなら、おそらく信念の危機に取り組むべきだ。重力ほどしっかり裏づけられていれば、その必要はない。だが神は重力ほど確かだと必死に思いたがる有神論者を考えてほしい。あなたの「重力ほど確か」という議論に、世の懐疑者ならどう言うか想像しよう。信念の危機に失敗する理由の一つは、そもそも腰を据えて疑わず、「これは適切に疑う努力が必要なことだ」と言わないことなのだ。
そこまで思考が込み入ったなら、思い切って信念の危機に取り組もう。行き当たりばったりにせず、ふと空いた時間で済ませようとしない。「義務どおり疑った」と言えるよう、急いで終わらせようとしない。有神論者にそれは効かず、あなたにも効かない。前日はよく休み、心の状態を整えよう。邪魔されない数時間を確保し、静かな場所に座ろう。定番の議論を頭から払い、初めから見ようとする。そして、深く抱く誤った信念を、しかも誤ったものだけを打ち破る、本当の疑いを持つために、必死に努力しよう。
信念の危機の技法をなす要素は、多くのエッセイに分散している。
- 「信念の本当の弱点を避ける」――最初の誘惑の一つは、自分の信念の最も強い部分を疑い、上手な答えを繰り返し思い返すことだ。考えると安心する議論ではなく、最も痛むところを探さなければならない。
- 「好奇心についての瞑想」――ロジャー・ゼラズニイは「作家になりたい」と「書きたい」を区別した。同様に、「調べたことにしたい」と「調べたい」は違う。「自分の信念を批判するのが義務だ」と言うだけでは足りない。好奇心が必要で、それを生むのは不確実性だけだ。期待される証拠の保存を意識すると、少しずつ自分を更新する助けになる。考える一つ一つの論点、新しい議論や証拠の要素ごとに、信念が平均して一方向へ他方より多く動くとは予想すべきでない。だから毎回、どうなるのか本当に興味を持てる。
- 「初めて見るように見る」――パーシグの方法を使い、定番の出来合いの考えが押し寄せてパターンを完成させるのを防ごう。
- ジェンドリンの連祷とタルスキの連祷――人は真実に耐えられる。すでに耐えているからだ。信念が真なら信じるほうがよく、偽なら退けるほうがよい。宗教家には、神のいない世界を十分深く思い描き、言い訳せず、もし神がいないなら、神はいないと信じるほうがよいのだと理解するよう助言するだろう。感情の深い水準でこれを受け入れられなければ、信念の危機は起こせない。だから、最も優れた懐疑者が望むとおり、自分の信念の代案を真摯に思い描く努力をしよう。宗教家が、自分を慰めるために歪めず、無神論者の宇宙観を思い描くのに必要な努力を考えてほしい。
- 「並外れた努力をする」――一所懸命という概念を見てほしい。合理的であろうとする、身をよじるような必死の努力。オーマンや、歴史上、宗教を決して手放さなかった偉大な科学者たちの水準を超えるのに必要な努力だ。
- 「由来に注目するヒューリスティック」――今では信用できないとわかっている情報源から、多くの考えを得ていながら、なんと、それらはすべて結局正しかったらしい、という場合には、強く疑うべきだ。(たとえば、聖書は人間の手で書かれたと認めながら、なお欠くことのできない倫理的知恵があるという考えにしがみつく人だ。)
- 「『しまった』と言うことの大切さ」――苦い薬をひどい一口で丸ごとのみ込むほうが、本当に苦痛は少ない。
- 「一重思考」――二重思考の反対だ。考えるのを拒む前に、心の隅に一瞬だけ現れ、ひるんで目をそらす思考を見よう。考えていないことに気づけば、考えることができる。
- 「感情の死のスパイラル」と「幸せな死のスパイラルに抗う」――これらのスパイラルは、信念の危機でなければ振りほどけない誤った信念の主要な発生源だ。だが、本当によい実在するものを中心に始まることもある。だから、あらゆる点でハロー効果に抗うために、自分の信念は嘘だと認める必要はない。本当によいものへの偽りの称賛も拒もう。政策論争は一方的に見えるべきではない。
- 「解決策の提案を待つ」――問題を可能な限り徹底して議論するまで、解決策を提案しない。心に、自分の答えを知るまで待たせよう。そして一般にも、特に悪魔の側の見方を追うときには、諦める前に五分間は試そう。
また、次の標準的な技法も特に関係が深い。
- 「結論」と「後づけの理屈」のシークエンス。論争の一方だけを選んで擁護することが、なぜ常に間違いなのかを説明する。
- 肯定バイアス、動機づけられた懐疑、動機に左右される打ち切り。支持材料だけを探し、反論への再反論だけを探し、危なくなる前に都合よく議論を止めないためだ。代案の見落としは、打ち切りの特殊な場合である。動機づけられた懐疑の特殊な場合には、知りたくないことを、誰にも知れないと恥ずかしげに告白する偽の謙虚さがある。反論にだけ、過大な権威を要求してはならない。
- 意味論的な停止標識、拍手の合図、そして説明するか、崇拝するか、無視するかという選択に気をつけよう。
- 細部が課す立証の負担を感じよう。細部の一つ一つが、別々の負担、危機の一点なのだ。
だが実際には、ここにもOvercoming Biasにも、関係する材料はもっとたくさんある。信念の危機は、より長い一生懸命の中の臨界点、突然の衝突にすぎない。くだらない間違いの水準を超えるほど、信じがたいほど合理的になろうとする、生涯を通じた妥協のない努力だ。長く練習してきた技能を、全力で自分自身に向けて使う機会なのである。
その相手との戦いで、幸運を祈る。素晴らしい危機を!