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「雪は白い」という文が真であるのは、雪が白い場合、かつその場合に限る。
あるものをあると言い、ないものをないと言うことは、真である。
この二つの引用では「真理」の定義として不十分に思えるなら、先の「単純な真実」へ飛んでほしい。ここでは「証拠」について話そう。(また、「合理的に感じる」で区別したように、感情や道徳ではなく、事実についての信念を扱うつもりだ。)
道を歩いていて、靴ひもがほどける。そのすぐ後、何やら不思議な理由で、あなたは靴ひもがほどけていると信じるようになる。太陽から出た光が靴ひもに当たって反射する。光子の一部が瞳孔を通って網膜に当たる。光子のエネルギーが神経インパルスを引き起こす。そのインパルスが脳の視覚処理領域へ伝えられる。そこで光学的な情報が処理され、三次元モデルへと再構成されて、ほどけた靴ひもと認識される。世界とあなたの脳の中で、一連の出来事、因果の鎖がつながり、あなたは自分が信じていることを信じるに至る。この過程の最終結果は、現実の靴ひもの状態を映し出す、心の状態だ。
証拠とは何か。それは、あなたが知りたいものと、因果のつながりによって絡み合った出来事だ。たとえば、調べたい対象が靴ひもなら、瞳孔に入る光は靴ひもと絡み合った証拠になる。これは物理学で使われる「もつれ」という専門用語の意味と混同してはいけない。ここで言う「絡み合い」とは単に、二つのものが、その間の因果のつながりによって、相関した状態になるという意味だ。
あらゆる影響が、証拠に必要な種類の「絡み合い」を生むわけではない。当たりの宝くじ番号を入力すると音が鳴る機械でも、外れの番号を入力したときにも鳴るなら、役に立たない。靴ひもが結ばれていてもほどけていても、光子が同じ物理状態になるのなら、靴から反射する光は、靴ひもについての役立つ証拠にはならないだろう。
抽象的に言えば、ある出来事が、調べる対象についての証拠になるには、その対象が取りうる異なる状態と絡み合う形で、出来事の起き方が異ならなければならない。(専門的に言えば、その出来事と対象の両方についての現在の不確実性に照らして、証拠となる出来事と調べる対象との間に、シャノンの相互情報量がなければならない。)
絡み合いは、正しく処理されれば伝染する。だからこそ、目と脳が必要なのだ。光子が靴ひもから反射して岩に当たっても、岩はさほど変わらない。岩は、役に立つ形で靴ひもの状態を反映しない。靴ひもが結ばれているかほどけているかによって、見分けられるほど違ったものにはならない。だから、岩は法廷で役立つ証人になれない。写真フィルムは、入ってくる光子から靴ひもとの絡み合いを受け取るので、写真自体が証拠として働ける。目と脳が正しく働けば、あなたは自分の靴ひもと絡み合うことになる。
合理主義者が、一見逆説的な次の主張をひどく重んじるのは、このためだ。信念に本当に価値があるのは、原理的には、説得されて別のことを信じるようにもなりうる場合だけである。どんな光が入ってきても網膜が同じ状態になるなら、あなたには何も見えないだろう。ある種の信念体系は、自分を補強するためのかなり見え透いた手として、特定の信念は無条件に信じてこそ本当に価値がある、と説く。何を見ても、何を考えても、信じろというのだ。何があっても、脳は同じ状態になることを求められる。だから「盲信」と呼ぶ。自分が信じることが、自分の見ることに左右されないなら、眼球をくり抜かれたのと同じくらい、見えなくされている。
目と脳が正しく働けば、あなたの信念は事実と絡み合う。合理的な思考は、それ自体が証拠となる信念を生み出す。
あなたが本当のことを話せば、それ自体が証拠である合理的な信念は、ほかの誰かにとっての証拠として働ける。絡み合いは因果の鎖を通して伝わる。あなたが話し、別の人が聞くことも、因果関係だ。携帯電話で「靴ひもがほどけている」と言うとき、あなたは、靴ひもとの絡み合いを友人と共有している。
したがって、互いを正直だと信じる正直な人々の間では、合理的な信念は伝染する。だからこそ、自分の信念は伝染しない——他人には伝えられない私的な理由で信じている——という主張は、ひどく疑わしい。信念が現実と絡み合っているのなら、正直な人々の間では伝染するはずなのだ。
あなたの現実モデルが、あなたの思考過程の出力は他人へ伝染しないはずだと示唆するのなら、そのモデルは、あなたの信念はそれ自体では証拠でなく、つまり現実と絡み合っていない、と言っている。内省による修正を行い、信じるのをやめるべきだ。
実際、これらすべてが何を意味するかを腹の底で実感すれば、あなたは自動的に信じるのをやめるだろう。「私の信念は現実と絡み合っていない」は、「私の信念は正確でない」を意味するからだ。「『雪は白い』は真だ」と信じるのをやめたとたん、「雪は白い」と信じるのも(自動的に!)やめるはずだ。そうならないなら、何かがひどくおかしい。
では、自分の使う思考過程がなぜ、現実を映し出す信念を体系的に生み出すのか、説明してみてほしい。なぜ自分が合理的だと思うのかを。なぜ、自分のような思考過程を使う心は、雪が白い場合、かつその場合に限って「雪は白い」と信じるに至ると思うのかを。自分の思考過程の出力が現実と絡み合っていると信じていないなら、なぜ自分の思考過程の出力を信じるのか? それは同じことだ。少なくとも、同じであるべきだ。