非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

退路を残しておく

Leave a Line of Retreat

❦

敵を包囲するときは
必ず逃げ道を残しておけ。
死ぬほかにも道があると
相手に見えなければならない。

圧力を上げるのではなく、壁を低くしなさい。

あるとき、地元の合理主義者の集まりになぜか紛れ込んだ、合理主義者ではない女性と話す機会があった。彼女は、(a)魂を信じていること、(b)魂は凍結された身体にはとどまらないと思うので、クライオニクス(人体冷凍保存)を信じていないことを、ちょうど表明したところだった。私は尋ねた。「でも、それはどうして分かるのですか?」。顔によぎった困惑を見れば、彼女がその問いを一度も考えたことがないのは、かなり明らかだった。悪い意味で言っているのではない。感じのよい人だったし、人類の大半と同じように、合理性の訓練をまったく受けていなかっただけだ。私は本当に、あの本を書かなければならない。

その後の会話の大半は、Overcoming Biasですでに取り上げた話だった。何かについて本当に知りたいのなら、確かめるための良い方法をおそらく思いつくことができる。まず正確な信念を得ようとし、それから感情がそこから流れ出るようにする。そういった話だ。だが、その会話で、ここではまだ取り上げていなかった一つの考えを思い出した。

「ぜひ」と私は彼女に提案した。「魂がないとしたら世界はどうなるのか、そして自分はそれにどう対処するのか、思い描いてみてください。そんなはずはない理由を並べるのではなく、ひとまず前提として受け入れ、その帰結を想像するのです。そうすれば、怖すぎて向き合えないという代わりに、『魂がないなら、クライオニクスに申し込めばいい』『神がいないなら、それでも道徳的に生き続ければいい』と思えます。自分の誇りの問題としては、さっき言ったように、どんなに不快でも真実を信じようとすべきです。でも、人間の性質を考えれば、証拠を評価しようとする前に、その信念を少し受け入れやすくしておくと役立ちます」

この技法の原理は単純だ。孫子が敵に対して行えと勧めることを、自分に対して行わなければならない。退却しやすいよう、自分に退路を残しておくのだ。たとえば、失職の可能性は、考えることにさえ耐えられないときには、貯金があとどれくらい持つかを正確に計算し、地元の求人状況を調べ、次に何をするかを具体的に計画したあとと比べて、ずっと恐ろしく見えるかもしれない。それをして初めて、来月予定されている人員削減で自分が職を失わずに済む確率を、公平に評価する準備ができる。本物の臆病者になり、退却を細部まで計画しよう。一歩一歩を思い描こう。できれば、初めて戦場に足を踏み入れる前に。

不快な事態を思考実験として想像するほうが、それが本当である見込みを考えるより、少ない勇気で済むはずだ、というのが狙いだ。そして前者を済ませれば、後者も行いやすくなる。

ベイズ主義は精密さを求めるということを忘れないでほしい。恐ろしい命題が、本当にありそうにないと見なすべきものであっても、賛否両方の証拠をきっちり公平に数え上げ、合理的な数値としての確率にたどり着くことは、やはり重要だ。怖い信念を思い描くことは、心の奥ではおそらく本当だと思っている、と認めることではない。心の中をきちんと整えるという一般原則に従って、怖い信念を想像してよい。「考えることのできない思考は、声に出して語る思考よりも、あなたを強く支配する」。考えられないその思考が、偽だったとしても、そうなるのだ!

退路を残す技法を正しく使うには、最低限、自分に対して正直である必要がある。

まず、どの考えが怖く、どの考えに愛着があるかを、少なくとも自分には認められなければならない。だがこれは、怖い考えの証拠を公平に数えるよりも、ずっと容易な試験だ。私自身もこの技法を使うことがあると言えば、助けになるだろうか。何しろ、合理主義者は感情をすべて拒絶するわけではない。私にも、怖いが、それでも偽だと思っている考えがある。愛着があると分かっていても、それでも真だと思っている考えがある。それでも退路を計画する。退却するために計画しているのではない。あらかじめ退路を計画しておけば、執着せずに問題を考えやすくなるからだ。

だが、自分への正直さがさらに問われるのは、不快な命題を本当に前提として受け入れ、実際にどう対処するか考えることだ。不快な考えに直面したとき、私たちの最初の衝動は、当然ながら、そんなことはありえない理由をあれこれ考えることだ。だから、自分が最も大切にしている信念が偽だったら、あるいは最も恐れている信念が真だったら、世界は具体的にどうなり、自分はどうするのかを想像しようとすると、心の中にある程度の抵抗を感じるだろう。

神がいなければ道徳は不可能だ、と言う人々のことを考えてほしい。(実際、この話題は先ほどの会話にも出た。架空の相手を作って叩いているのではない。)神を信じる人が、神はいないと事実として信じるようになったときの、自分の実際の反応を思い描ければ、いや、自分は赤ん坊を殺して回るようにはならない、と気づけるだろう。そして、無神論者の神の不在への反応も、自分がそう信じるようになったら取るであろう反応と、ほとんど同じだと分かるだろう。こう述べたのは、固く抱いている信念の反対を信じたときに、自分が本当はどう反応するかを想像するのは、かなりの難題だと示すためだ。

それに、人は実際に物事を乗り越えていくのだと気づくのは、いつも直感に反する。四肢麻痺になったばかりの人も、6か月後には、自分で予想したほど悲しんではいない、というように。恐ろしい信念が真実と分かった場合でも、自分は何とかそれと折り合いをつけるようになるのだと理解することも、同じくらい直感に反しうる。四肢麻痺の人々も何とか折り合いをつけて暮らしているように、あなたもそうするだろう。

ジェンドリンの連祷とタルスキの連祷も参照してほしい。真実はすでにそうなっている。認めても悪化はしない。恐れる世界をただ思い描くことを、怖がるべきではない。その世界がすでに現実なら、想像しても悪化しない。現実ではないのなら、想像しても害はない。そして、想像するときは思い出してほしい。思い描いている恐ろしいことが、本当に真実なら――そうでないかもしれないが!――あなたは確かにそれを信じたいはずだ。そのことも想像しよう。信じないでいても、助けにはならない。

神がおらず、自分も無神論者になった仮想の世界を正確に思い描けるとしたら、どれほどの信仰者が、神への信仰を保ち続けるだろうか。

退路を残すのは強力な技法だが、容易ではない。正直に想像することは、神はいないとはっきり認めるほどの努力を要しない。それでも、努力は必要なのだ。

孫子、孫子の兵法(Cloud Hands, Inc.、2004年)。 ↩

ロイス・マクマスター・ビジョルド、コマール、マイルズ・ヴォルコシガン・シリーズ(Baen、1999年)。 ↩