非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

政策論争は一方的に見えるべきではない

Policy Debates Should Not Appear One-Sided

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ロビン・ハンソンは、禁止された商品を販売できる店を提案した。この政策を支持する優れた議論はいくつもある。個人の自由は本来の権利だということ、官僚には出世のためにあらゆるものを禁止する動機があること、立法者にも個人と同じくらいバイアスがあること。だが、それでも、と私は答えた。貧しく、実直で、それほど教育を受けていない、5人の子を持つ母親の誰かが、その店に入って関節炎のために「いかさま博士の硫酸ドリンク」を買い、死ぬだろう。そして残された孤児たちは、全国放送のテレビで泣くことになる。

私はただ、事実について簡単な指摘をしただけだ。なのに、なぜそれを規制に賛成する議論だと受け取る人がいたのだろう?

単純な事実に関する問い――たとえば、地球の生命は自然選択によって生じたのか――なら、議論は一方的な戦いになるはずだと期待するのは正当だ。事実自体がどちらか一方であり、いわゆる「証拠の重みの釣り合い」も、それを反映するはずだからだ。実際、ベイズ的な証拠の定義では、「強い証拠」とはまさに、議論の片側でしか見つかるとは期待しない種類の証拠である。

だが、多くの結果を伴う複雑な行動まで、この一方的という性質を示す理由はない。なぜ人は、政策論争が一方的であってほしいと思うのだろう?

政治は思考を殺す。論拠は兵士だ。どちらの側につくかが決まれば、その側のあらゆる論拠を支持し、敵側に有利に見える論拠はすべて攻撃しなければならない。そうしないのは、味方の兵士を背後から刺すようなものだからだ。この型に従っていると、政策論争も一方的に見える。支持する政策の費用や欠点は敵の兵士であり、必要とあらばどんな手段でも攻撃すべきものになる。

関連する別の失敗にも気をつけたい。最も多く放送時間を与えられた二つの政策的立場の、ちょうど真ん中で妥協することが「深遠な知恵」の道だと考える失敗だ。政策の費用と便益は、本当に大きく偏っていることもある。政策上の問いがどちらかへ傾いていなければ、私たちは決定を下せないだろう。だが人には、支持する政策の費用をすべて否定し、支持しない政策の便益をすべて否定する傾向もある。そのため人は、政策のトレードオフが、実際よりはるかに片側へ傾いていると思いがちになる。

通常は禁止されている商品を売る店を認めれば、貧しく実直で、十分な教育を受けていない、5人の子を持つ母親の誰かが、自分を死に至らせるものを買うだろう。これは、事実として起こる結果についての予測だ。事実上の問いとしては、かなり明白に思える。政策についてどちらの立場を取るにせよ、分別のある人なら、これは本当だと容易に認めるはずだ。禁止しても価格が高くなるだけだとか、規制当局は権力を乱用するだろうとか、その女性の生き方に干渉したいというあなたの願望より、彼女個人の自由が優先すると考えてもよい。だが、単純な事実として、彼女はそれでも死ぬ。

私たちは不公平な宇宙に生きている。ほかの霊長類と同じく、人間は不公平だと感じたものに強い否定的反応を示す。だから、この事実は苦痛だ。そこから生じる認知的不協和に対処する、よくある方法は二つある。第一に、事実の見方を変える。不公平な出来事が起きたことを否定したり、公平に見えるよう歴史を書き換えたりする。(これは感情ヒューリスティックと公正世界の誤謬を介して起きる。)第二に、自分の道徳観を変える。その出来事は不公平ではないと否定するのだ。

リバタリアンの中には、この店の商品はあなたを死なせるかもしれませんという明確な警告を通り過ぎて「禁止商品店」に入り、自分を死に至らせるものを買ったのなら、自分の責任であり、そうなって当然だと言う人もいるだろう。もしそれが道徳的真理なら、禁止された商品を売る店には不利益が一切ないことになる。単に差し引きで得になるのではなく、欠点がまったくない、一方的なトレードオフになるのだ。

一方、規制担当者は、消費者の利益に沿って合理的に選択するよう訓練できると主張する人もいる。事実が本当にそうなら、その人たちの道徳観では、規制には不利益が一切ないことになる。

好むと好まざるとにかかわらず、知能には生まれのくじがある。ただし、これは宇宙の不公平さがあまりに極端で、多くの人が事実を否定するほうを選ぶ事例の一つだ。純粋に遺伝的な成分が0.6~0.8であることを示す実験的証拠は圧倒的だが、仮にそれを否定したとしても、親の育て方も、幼いころに通う学校も、自分では選べない。

私は、現実を否定するのは道徳的に間違っていると教えられて育った。もし硫酸ドリンクが自分のためになるだろうと希望的な楽観にふけるなら、それは、してはいけないと警告され、容認できないと教えられてきたことをするということだ。ある人々は、その土地の呪術医が、信じることは正しく、疑うことは間違っていると説く環境に生まれる。遺伝子の話はやめておこう。その部分はあまりに不公平だからだ。その人たちは、まったくの善意でこの助言に従い、死ぬ。あなたとは違って、社会の導きに従うという個人の選択にも本人の責任がある、とは教えられて育っていない。自分はそれほど賢く、西暦500年に生まれていても、きちんと科学的な懐疑の姿勢を持てたはずだと、本気で思うだろうか? そう、生まれのくじはある。遺伝子について何を信じていようと。

「危険な商品を買う人は、痛い目に遭って当然だ!」と言うのは、厳しい現実に向き合うことではない。不公平な宇宙に生きることを拒む方法だ。本当に厳しい現実に向き合うとは、こう言うことだ。「そう、硫酸で死ぬのは恐ろしく苦しい。いや、あの5人の子を持つ母親は、そんな目に遭って当然ではなかった。それでも、こういう費用便益計算をしたので、店は開け続ける」。政治家がこう言うところを想像できるだろうか? 私にもできない。だが、経済学者が政策に影響を与える力を持つかぎり、内心ではこう考えられれば役に立つかもしれない。ひょっとすると、やたらに長ったらしい難解化的煙幕用語で適切に飾り、メディアが引用できないようにして、学術論文に書くことさえできるかもしれない。

誰かが愚かな選択をして死んでも、私はそれを喜ぶべきことだとは思わない。悲劇だと考える。自分の行動の結果から人を救うことが、いつもその人のためになるとは限らない。だが、死刑には道徳上の一線を引く。死んでしまえば、自分の間違いから学ぶことはできない。

残念ながら、宇宙は私に同意してくれない。すべてが終わったとき、どちらがまだ立っているか、見てみよう。