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ただの補強的な細部です。それがなければそっけなく説得力のない物語に、芸術的な真実らしさを添えるための……。
連言錯誤とは、人間が確率P(A,B)を、確率P(B)より高く見積もることだ。P(A,B) ≤ P(B)は定理なのに、そうしてしまう。たとえば1981年のある実験では、被験者の68%が、「レーガンは未婚の母親に連邦の支援を行い、かつ地方政府への連邦の支援を削減する」を、「レーガンは未婚の母親に連邦の支援を行う」より起こりそうだと評価した。
巧みに設計され、ほかの仮説を排除して標準的な解釈を確立した、長い一連の実験によって、連言錯誤は私たちが「確率の判断を、代表性の判断に置き換える」ために起きると確認された。細部を追加すれば、その結果が、それを生み出す過程の特徴をよりよく表しているように見せられる。レーガンは地方政府への支援も削減する、という主張を付け足すことで、彼が未婚の母親を支援するという話を、よりもっともらしくできる。一方の主張のありそうもなさが、もう一方のもっともらしさで埋め合わされる。「平均される」のだ。
つまり、細部を追加すると、出来事の確率は必ず低くなるのに、シナリオはもっともらしく聞こえるようになることがある。
そうだとすれば、仮の話として、未来学者が無責任なほどもっともらしく詳細な未来史を紡ぐのを目にするかもしれないし、説得力がありそうな少数の主張を芯として、根拠のない主張を大量に束ねたものを、人が丸ごと飲み込むのを目にするかもしれない。連言錯誤をむき出しの直接比較で示されれば、意識的に自分を修正し、その問題にだけは正解できるかもしれない。だがそれは、問題に絆創膏を貼っているだけで、一般的に直しているわけではない。
専門の予測者が、「米国とソ連が外交関係を断つ」より、「ロシアがポーランドへ侵攻し、その後、米国とソ連が外交関係を断つ」に系統的に高い確率を割り当てた1982年の実験では、各実験群には一つの命題しか示されなかった。2比較の存在を直接知る個人が誰もいないとき、予測者たちが全体として連言錯誤を避けるには、どんな戦略を取れただろう? この実験が連言錯誤を扱っていることすら誰も知らないのに? どうすれば、確率をもっとよく判断できただろうか?
一つのひっかけを特別な例として直しても、一般的な問題は直らない。ひっかけは症状であって、病気ではない。
直接比較を見ず、連言錯誤を試されるとすら知らないまま、予測者たちがそれを避けるには、何ができただろう? 私には、「かつ(and)」という言葉に気づく必要があるように思える。それを警戒する必要がある。ただ警戒するだけでなく、飛びのくほどに。後で研究者が連言錯誤に絞って検証することを知らなくても、だ。丸ごと二つもの細部が結び合わされていることに気づき、こんなにもとんでもなく複雑な予測への賛同を求める、その大胆さに衝撃を受ける必要がある。そして、確率を大幅に割り引く必要がある。実験の詳細に従えば、少なくとも4分の1にするほどに。
米国とソ連が外交関係を断つ、ほかにありうる理由を考えることも、予測者の助けになったかもしれない。シナリオは、「米国とソ連が、理由もなく突然外交関係を断つ」ではない。「米国とソ連が、何らかの理由で外交関係を断つ」なのだ。
では、「レーガンは未婚の母親に連邦の支援を行い、かつ地方政府への連邦の支援を削減する」を評価した被験者は? やはり、「かつ(and)」という結びつきに衝撃を受ける必要がある。さらに、ありそうもなさを平均するのではなく、足す必要がある。ここでいうありそうもなさは確率の対数で表すので、足せるのだ。こう考える必要がある。「レーガンが地方政府への支援を削減するかどうかは、どちらもありうる(1ビット)。だが、未婚の母親を支援するのは、かなりありそうにない(4ビット)。合計のありそうもなさは5ビット」。あるいは、「レーガンは未婚の母親を支援しない。1ストライクでもうアウトだ。もう一方の命題は、それをさらに悪くするだけだ」と。
同じように、緑の面が四つ、赤の面が二つある六面体のサイコロを考えよう。被験者は、20回振る間のどこかに現れる並びとして、(1)rgrrr、(2)grgrrr、(3)grrrrrのいずれかに賭けなければならなかった。3被験者の65%はgrgrrrを選んだが、これはrgrrrより厳密に不利だ。grgrrrを含む並びなら、必ずrgrrrに賭けても当たるからである。どうすれば、もっとよく判断できたのだろう? 包含関係に気づけばよかった? そうかもしれない。だが、それは絆創膏にすぎず、根本問題は直らない。確率を明示的に計算すればよかった? それなら確かに根本問題は直るが、いつでも正確な確率を計算できるわけではない。
被験者が頼った直感的な判断法は、こうだった。「そうか! 並び2は、赤に対する緑の割合がいちばん高い! 並び2に賭けよう!」。それで負けた。直感的な判断法で勝つには、こう考える必要がある。「そうか! 並び1は短い! 並び1にしよう!」
オッカムの剃刀から、もっと強い感情的な衝撃を受ける必要があるのだ。サイコロをたった1回余分に振るだけでも、追加された細部の一つひとつを重荷として感じる必要がある。
以前、私は、軽率な未来学者――格好よく聞こえる細部をどんどん付け足す人――に魅了された人と話していた。私は、その驚くべき信じがたい理論に、なぜ同じようには魅了されないのかを説明しようとしていた。そこで連言錯誤について、とりわけ「断交、ポーランド侵攻あり/なし」の実験を説明した。相手は「わかった。でも、それがどう関係するんだ――」と言った。私は答えた。「宇宙が何らかの理由で複製するほうが、宇宙が高度な文明にブラックホールを作らせるよう進化し、その文明がブラックホールを作るため、ブラックホールを通じて宇宙が複製するより、確率は高いんだ」。彼は「ああ」と言った。
そのときまで彼は、付け加えられた細部を、付け加えられた重荷として感じていなかった。むしろ、物語に真実らしさを添える、補強的な細部として受け取っていた。誰かが奇妙な考えを一まとめにして示す。その一つが、宇宙は複製するという考えだ。それから、宇宙が複製するという主張の裏づけを示す。だが、たとえ一つの物語として語られていても、それは一まとめの主張全体の裏づけではない。
細部をほどいて、別々にしなければならない。一つひとつを独立に取り上げ、「この細部は、どうしてわかるのか?」と問わなければならない。誰かが、人類がナノテクノロジー戦争へと転落する構図を描く。中国が国際的な規制協定を守るのを拒み、その後に軍拡競争が起こる……。ちょっと待って。それが中国だと、どうしてわかる? ポケットに水晶玉でも入れているのか、それとも未来学者になれてうれしいだけなのか? この細部はどこから出てくるのか? その具体的な細部は、どこから来たのか?
こう記されているのだから。
重荷を軽くできるなら、そうしなければならない。
背骨を折る力を持たない藁など、一本もない。