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結論で私は、二つの箱のうち一つだけにダイヤモンドが入り、さまざまな徴候や前兆が証拠としてある、というジレンマを提示した。好奇心を持つ探究者と、巧妙な議論者を対置した。好奇心を持つ探究者は、徴候や前兆をすべて書き留め、処理し、最後に「したがって、箱Bにダイヤモンドが入っている確率を85%と推定する」と書く。巧妙な議論者は最高入札者のために働き、まず「したがって、箱Bにはダイヤモンドが入っている」と書き、それから上の行に並べるため、有利な徴候や前兆を選ぶ。
最初の手続きが合理性である。二番目の手続きは、一般に「合理化」として知られている。
「合理化」。なんとも奇妙な用語である。私はこれを間違った言葉と呼びたい。すでに合理的でないものを「合理化」することはできない。まるで「嘘をつく」ことを「真実化」と呼ぶようなものだ。
純粋に計算上の水準でも、次の二つにはかなり大きな違いがある。
- 証拠から出発し、確率の流れを計算処理して、起こりそうな結論を出力する。(徴候や前兆をすべて書き留め、その徴候や前兆に依存する確率へ前向きに流れ、結論部分へ書く。)
- 結論から出発し、確率の流れを計算処理して、その結論を支持するように見える証拠を出力する。(結論を書き留め、そこから後ろ向きに流れ、上の行に提示する徴候や前兆を選ぶ。)
これほど大きく異なる心的過程を表すため、「合理性」と「合理化」などという、紛らわしいほどよく似た言葉を考案した愚か者は誰なのか。私は、「合理性」対「すべてを吸い込む巨大な認知的ブラックホール」のように、アルゴリズム上の違いを明白にする用語のほうがよい。
あらゆる変化が改善であるわけではないが、あらゆる改善は必ず変化である。固定された命題を論じても、その命題の真実を増やすことはできない。より多くの人々に信じさせることはできるが、命題をより真にすることはできない。信念を改善するには、必ず信念を変えなければならない。合理性とは、信念を変えることで、その正確さを高めるために使う操作である。合理化は信念を所定の場所へ固定するよう働く。その実用的な結果と、逆向きのアルゴリズムの両方から、「反合理性」と名づけるほうがよい。
「合理性」とは、証拠を集め、重みづけし、結論を出力する前向きの流れである。好奇心を持つ探究者は、前向きに流れるアルゴリズムを使った。最初に証拠を集め、目に見える徴候や前兆をすべて一覧に書き、それから前向きに処理して、箱にダイヤモンドが入っている、以前は未知だった確率を得た。合理性の過程が前向きに動いている間、好奇心を持つ探究者はずっと、まだ目的地を知らなかった。そのため彼らは好奇心を持っていた。ベイズの道では、事前確率は期待される事後確率に等しい。目的地を知っているなら、すでにそこにいる。
「合理化」とは、結論から選ばれた証拠へ向かう後ろ向きの流れである。最初に、既知で固定された結論を書く。処理の目的は、その上の行へどの議論を書くべきかを見つけることだ。動いている過程にとって未知の変数なのは、結論ではなく、こちらである。
伝統的合理性は、前向きの流れと後ろ向きの流れの違いを、その使用者へ適切に感づかせないのではないかと私は恐れる。伝統的合理性では、お気に入りの仮説へたどり着き、それを証明する実験を見つけようと出発する科学者に、何の問題もない。伝統的合理主義者は、これを好意的に見て、「この誇りこそ、科学を前へ進める原動力だ」と言うだろう。まあ、それは科学を前へ進める原動力ではある。偏りのない人間を一人見つけるより、反対方向へ偏った検察官と弁護人を見つけるほうが容易である。
しかし、誰もが何かをしているからといって、それが正しいことにはならない。お気に入りの仮説へたどり着いた科学者が、その仮説を検証しようと、好奇心から出発し、自分自身の信念を未知の方向へ動かす実験を作るなら、さらによい。
どこへ向かうのか本当に知らなければ、おそらく、かなりの好奇心を感じるだろう。好奇心は第一の美徳であり、それがなければ問いに目的がなくなり、技能に方向がなくなる。
フォースの流れを感じ、それが後ろ向きに流れていないことを確かめてほしい。