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さまざまな論理的誤謬の一覧には、「発生論的誤謬」が含まれている。ある人がその信念を持つに至った原因をもとに、その信念を攻撃する誤謬のことだ。
一見すると、これはとても奇妙な考えだ。信念の原因が、その信念の系統的な信頼性を決めないのなら、何が決めるのか。ディープ・ブルーがチェスの一手を勧めてくれた場合、私たちはゲーム木そのものを自力では評価できないので、それを探索するコードについての理解をもとに信頼する。ある確率の割り当てが「合理的」だと言える根拠は、それが系統的に信頼できる過程から生み出されたこと以外に、何があるのだろう。
発生論的誤謬を扱う記事によれば、由来に基づく推論がいつも誤謬になるわけではない。信頼できる専門家の場合のように、証拠の出所が、その評価に関わることはある。だが、別の場合には誤謬になると、そうした記事は言う。化学者ケクレは夢の中で初めてベンゼンの環状構造を見たが、だからといって、この信念を決して信頼できないということにはならない。
では、発生論的誤謬は、誤謬になることもあれば、ならないこともあるのか。
発生論的誤謬が形式上の誤謬なのは、信念のもともとの原因と、その信念の現在の正当化の状態が同じではないからだ。後者は、現在知られている支持材料と反対材料をすべて合わせたものである。
しかし、私たちは自分で思うほど頻繁には考えを変えない。由来に基づく批判は、理想的なベイズ主義者に対しては持たない影響力を、人間に対しては持つ。
自分の考えの多くが、問題のある情報源から来ていたかもしれないと新たに疑わしくなったとき、頭をいったん白紙に戻すことは、強力なヒューリスティックになる。ひとたび頭に入り込んだ考えを、証拠で根こそぎ取り去るのは、必ずしも容易ではない。聖書を信じて育ち、後に聖書は神の手で書かれたという考えを意識の上では捨てたのに、それでも聖書には欠かせない倫理的な知恵があると考えている、多くの人々のことを考えてほしい。彼らは頭を白紙に戻せていない。聖書に書いてあることを、聖書に書いてあるという理由ですべて疑ってみれば、ずっとよい結果を得られるだろう。
同時に、愚かさを逆にしても知性にはならないという原則を、しっかり心に留める必要がある。目標は、心を本当に固定観念から解き放ち、自分で考えることであって、聖書を否定することを自分のアルゴリズムにすることではない。
一度ある考えが頭に入ると、どこを見てもそれを支持する材料が見つかりやすくなる。だから、もともとの情報源が突然疑わしくなったときは、その枝にもともと生えた葉もすべて疑ってみるのが、実に賢明だろう……。
できるなら、の話だ! 頭を白紙に戻すのは容易ではない。心を、キャッシュされた論拠を繰り返す型に落ち込ませず、本当に考え直すには、身を揺さぶるような努力がいる。「どちらの結論にも同じくらい転びうるのでなければ、本当の信仰の危機とは言えない」と、トール・シェンケルは言った。
今では信頼できないと分かっている情報源から、たくさんの考えを得ていたのに、なんと、それらは全部やはり正しかったようだというなら、きわめて強く疑うべきだ。典型的な例は、言うまでもなく聖書である。
その一方で……十分に明確な証拠というものもある。そこまで明確であれば、その考えがもともとどこから来たかは、もはや大きな問題ではなくなる。その種の明確な証拠を積み上げることこそ、科学という営みの本質だ。ケクレが最初に夢でベンゼンの環状構造を見たことは、もう関係ない。検証する仮説を、コンピューターで無作為に生成した画像から見つけても、詐欺師だと判明した霊媒師から得ても、聖書から得たとしてさえも、関係ないだろう。ベンゼンの環状構造は十分な実験的証拠で確定されており、着想の出所はもはや無関係なのだ。
そのように明確な証拠がないときには、考えのもともとの出所に注意を払う必要がある。その分野が尊重に値する実績を積んでいるなら、素人より専門家を信頼すること。疑わしい情報源から最初に得た考えを疑うこと。動機が信用できない人については、本人の権威とは独立した論拠を示せないなら、信用しないこと。
発生論的誤謬が誤謬になるのは、指摘された由来の事実以外にも正当化の根拠があるのに、由来への批判だけで決着がついたかのように扱う場合だ。ハル・フィニーは、主張の出所へ正しく訴えることを「発生論的ヒューリスティック」と呼ぼうと提案している。
人間にとって有用な目安をいくつか挙げよう。
- 自分が気に入らない信念に向けられた、由来に基づく批判を疑おう。とくに、その信念の支持者が、話し手の単なる権威以外に根拠があると言っている場合はそうだ。「空を飛ぶことは宗教的な発想だから、ライト兄弟は嘘つきに違いない」は、古典的によく挙げられる例の一つである。
- 同じ理由で、関係者の人格や問題のある動機を賢しらに精神分析するだけで、専門的な問題について良い情報が得られると思ってはいけない。専門的な論拠があるなら、それが優先される。
- 自分の根本的な情報源の一つが新たに疑わしくなったとき、その根から伸びた枝葉をすべて、本当に疑うべきだ。だからといって、それらの結論を頭から否定してよいわけではない。愚かさを逆にしても知性にはならないからだ。だが……。
- 後に退けた情報源から初めに得た考えを、今も信じていると気づいたなら、きわめて強く疑おう。