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数年前、曾祖母が90代で亡くなった。長い時間をかけて、ゆっくり、残酷に衰えていった末のことだった。私は彼女の人となりをよく知らなかったが、遠い幼少期、彼女は家族のために料理をしていた。ゲフィルテ・フィッシュと、その顔と、私に優しくしてくれたことを覚えている。葬儀では、長年彼女の世話をしていた大おじが話した。涙をこらえながら、神は母を少しずつ呼び戻したのだ、と言った。記憶、言葉、そして最後には笑顔を。神がとうとう笑顔を奪ったとき、もう間もなく亡くなると分かった。母はすでに、ほとんどいなくなっていたからだ、と。
これを聞いて、私は戸惑った。誰に起きても、想像を絶するほどむごいことだから、大おじがそれを神の仕業とするとは思っていなかったのだ。普通、ユダヤ教徒は、悲劇を神が許したことになるという論理的な帰結を、どうにかして「考えずに済ませる」。ユダヤ教の神学では、神は絶えず宇宙を支え、その中のすべての出来事を選んでいる。だが普通、その信念から論理的な帰結を引き出すのは、もっと喜ばしいときだけだ。女の赤ちゃんに恵まれたときだけ「神がしてくださった!」と言い、流産、死産、乳児の突然死については「神がした!」と考えずに済ませれば、自分の神の慈悲深さについて、かなり偏った像を作れる。
だから、大おじが母のゆっくりとした崩壊を、神の意図的で、戦略的に計画された行為だと語るのを聞いて、驚いた。私が理解していた、宗教的な自己欺瞞の規則に反していたからだ。
もし私が自分の戸惑いに気づいていたなら、意外な予測を立てて的中させられただろう。それから間もなく、大おじはユダヤ教を離れた。(私が知るかぎり、親戚でそうしたのは、私以外では彼だけだ。)
現代正統派ユダヤ教は、私が聞いたほかのどんな宗教とも違う。ミシュナーやゲマラを無理に学ばされたことのない人に、どう説明すればよいか分からない。問いを立てる伝統はある。だが、その問いの種類は……。ラビが週ごとの説教で、天地創造の7日間と、ビッグバンから137億年との食い違いを指摘しても、まったく不思議ではない。それは、ほかの聖書の記述を三つ、ミドラシュを一つ、そして半分しか理解していないScientific Americanの記事を使った、実にうまい説明を思いついたと思っているからだ。正統派ユダヤ教では、不整合や矛盾に気づくことは許される。ただし、説明をつけて片づけるためだけだ。そして、最も複雑な説明を考えた人が賞をもらう。
探究の伝統はある。だが、標的を攻撃するのは、それを守るためだけだ。守れると分かっている標的だけを攻撃する。
現代正統派ユダヤ教で、盲信の美徳が強調されるのは、あまり聞いたことがない。疑ってもよい。ただ、首尾よく疑うことは許されない。
教育を受けた正統派ユダヤ教徒の大半は、人生のどこかで自分の信仰を疑ったことがあるだろうと思う。だが、おそらくその疑問は、こんな形だった。「懐疑派によれば、トーラーには宇宙が7日で創られたと書いてあり、科学的に正確ではないという。だが、シナイ山に集まった古代イスラエルの部族の人々に、科学的な真実を示したとしても、理解できただろうか? そもそも『十億』を表す言葉があっただろうか? 7日間の物語は比喩と考えるほうが分かりやすい。まず神は光を創った。これはビッグバンを表している……」
自分のユダヤ教信仰を攻撃するなら、ここが最も弱い点だろうか。トーラーをもう少し先まで読むと、神がエジプトの初子である男の子たちを殺す話がある。選挙で選ばれたわけでもないファラオを説き伏せ、奴隷たちを解放させるためだ。だが論理上、奴隷たちは国外へ瞬間移動させられたはずである。正統派ユダヤ教徒なら、間違いなくこの話を知っている。会堂では、年に一度、トーラー全体を通読することになっているし、この出来事に結びついた大きな祝祭もあるからだ。「過越祭(ペサハ)」という名は、神がエジプト中のすべての初子の男子を殺す際、ユダヤ人の家々を過ぎ越したことに由来する。
現代正統派ユダヤ教徒は、おおむね親切で文明的な人々だ。旧約聖書を編集した数人の人々より、はるかに文明的である。昔のラビたちでさえ、もっと文明的だった。セデルには、エジプト人の苦しみを強調するため、十の災いのそれぞれにつき一滴ずつ、杯からワインを十滴取り出す儀式がある。(もちろん、エジプト人の苦しみには同情すべきだが、立ち上がって「こんなのは正しくない! こんなことをするのは間違っている!」と言うほど同情してはいけない。)面白い対比である。ラビたちは、災いのむごさを認められるほどには、旧約聖書の編纂者より心優しかった。だが、その時代には科学がまだ弱かったので、聖典のより不快な側面を考えても、それで信仰が完全に崩れることを恐れずに済んだのだ。
この出来事が神への評価を悪くするのではないか、とは問いもしない。だから「神の道は不可思議だ!」「私たちは神の判断を疑うほど賢くない!」「神がするなら赤ん坊を殺しても構わない!」と、急いで口走る必要もない。問いのその部分は、ただ考えられずに済まされる。
教育を受けた信仰者が信仰を保つ理由は、疑うとき、無意識に細心の注意を払い、自分の信念の最も強い部分、つまり守れると分かっている場所だけを攻撃するからではないかと、私は思う。しかも、定番の弁護をおさらいすれば、自分が強くなったと感じられる場所を選ぶのだ。
たとえば、「科学によれば、宇宙は無意味な原子が跳ね回っているだけではないのか?」への、あらかじめ用意された弁護を繰り返すのは、おそらくとても気持ちがよい。宇宙の意味や、それがいかに神から生まれるかなどを確認できるからだ。殺された息子のゆりかごの前で泣き叫ぶ、字の読めないエジプト人の母親を思うより、はるかに心地よい。ユダヤ教への信仰を疑うときに、後者を自然に思い浮かべる人は、本当に疑っている。そして、おそらく長くはユダヤ教徒でい続けないだろう。私が言いたいのは、単に正統派ユダヤ教を叩くことではない。初子の殺害についても、何らかの答えはあるはずで、おそらく十数通りあるだろう。言いたいのは、自然に自分へ疑問を向けるとき、最も弱く脆い部分を攻撃するより、安心できる返答をおさらいできる強い部分を攻撃するほうが、はるかに起こりやすいということだ。同じように、返答をさらに批判するよりも、最初の返答で安心して止まりやすい。「自分の信念の本当の弱点を避ける」より、「自分の信念の最も痛い弱点を、自然には思い浮かべない」のほうが、よい題名だろう。
何よりも宗教の支配力を支えているのは、人々が自分の宗教の本当の弱点を、ただ考えずに済ませることだ。これは訓練の問題ではなく、本能の問題だと思う。人が信念の本当の弱点を考えないのは、赤く熱したコンロのバーナーに触らないのと同じ理由だ。痛いからである。
もっとよくするには、最も大切にしている信念の一つを疑うとき、目を閉じ、頭を空にし、歯を食いしばって、いちばん痛いことをあえて考えよう。定番の反論を返せば気分がよくなるような、定番の異論をおさらいしてはいけない。あなたに反対する賢い人々なら、最初の返答と二番目の返答に何と言うか、自問しよう。一瞬頭に浮かんだ異論から身を引く自分に気づいたら、その異論を意識の最前面へ引きずり出そう。自分のみぞおちに一撃を入れるのだ。心臓にナイフを突き立て、動かして穴を広げるのだ。その痛みに向き合うとき、繰り返すのは、これだけにしよう。
真実は、すでにそうなっている。
認めたところで、悪化はしない。
率直に認めなくても、消えはしない。
そして真実だからこそ、それが、そこにあって関わるべきものなのだ。真実でないものは、生きて関わる対象としてそこにはない。
人は真実に耐えられる。すでに、それに耐えて生きているのだから。
(スティーヴン・オモハンドロに感謝。)
ユージン・T・ジェンドリン、フォーカシング(Bantam Books、1982年)。 ↩