非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

正気の水位を上げる

Raising the Sanity Waterline

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黒帯ベイズ主義者の言葉を借りれば、目を引く劇的な失敗の背後には、それを可能にした、もっと大きく、もっと地味な失敗についての、さらに重要な物語がある。

明日、世界から宗教の痕跡が魔法ですべて消えたとしても——それで多くの人の暮らしがどれほどよくなるにせよ——そもそも宗教を可能にした、もっと大きな正気の破綻を解決するところには、遠く及ばないだろう。

宗教そのものをなくそうとすることに、努力の一部を向ける正当な理由はある。宗教は、それ自体が直接の問題だからだ。だが宗教は、炭鉱で窒息したカナリアの役割も果たす。もっと大きな問題の兆候、症状であり、それらの問題は、誰かが信仰を失っただけではなくならない。

次の思考実験を考えてほしい。宗教を直接扱わず、合理性の一般的な方法として真で有用であり、それを教わると人々が信仰を失うようなものは何だろう? 実際に、5年後にあなたの生徒全員を調査して、対照群と比べて何人が信仰を失ったか確かめると想像してほしい。宗教と直接闘うようなことを少しでもすれば、実験は無効になる。授業で宗教や宗教的信念に一度も言及してはいけない。わかりやすい形でほのめかすことさえ禁止だ。例はすべて、宗教とは無関係な現実の事例を中心にしなければならない。

宗教と直接闘えないとしたら、何を教えれば、宗教が水没するところまで、正気の全般的な水位を上げられるだろう?

私がすでに扱ってきた中にも、そうした話題はいくつかある。宗教への言及をすべて避けていたわけではないが、避けることはできる。

だが、別の角度から見てみよう——。

いまだに宗教を信じている科学者がいるとしよう。本格的な聖典宗教でもいいし、「霊性」を曖昧に、気軽に支持するという意味でもいい。

この人物が、次のことについての技術的で明示的な理解を適用していないと、私たちはわかる。

考えてみれば、これはどれも、その種の学びの中ではかなり基礎的な事柄だ。すべてへの簡単な入門なら(まあ、自然主義的メタ倫理学は別として)……履修条件のない、学部の4単位の授業くらいだろうか?

だが、その授業を受けていないノーベル賞受賞者がいる! 安易な攻撃の例が欲しいならリチャード・スモーリー、ぞっとする例が欲しいならロバート・オーマンだ。

しかも、孤立した例外ではありえない。同業者全員がその授業を受けていたなら、スモーリーやオーマンは、同僚に親切に脇へ呼ばれ、基本の基本を説明されて、考えを修正していたはずだ。あるいは、あまりにも同情と懸念の目で見られ、ノーベル賞は受賞できなかっただろう。サンタクロースの存在を主張しながらノーベル賞を取れるだろうか? 公平かどうかは別として、現実的に考えてみてほしい。

死んだカナリア、つまり宗教が教えてくれるのは、このことだ。正気の全般的な水位は、いま、本当にばかばかしいほど低い。科学の最高の殿堂においてさえ。

死んで腐ったカナリアを捨てれば、炭鉱の悪臭はいくらか減るだろう。だが、正気の水位は、さほど上がらないかもしれない。

これは新無神論運動への批判ではない。宗教がもたらす害は、明白かつ現在の危険——というより、現在も続いている災厄——だ。宗教をカナリアや実験指標として使うことより、宗教の直接的な害と闘うことのほうが優先される。だが、ドーキンス、デネット、ハリス、ヒッチェンズが、どうにかして人間世界の隅々まで完全無欠の勝利を収めたとしても、合理主義者の本当の仕事は、そのときようやく始まるにすぎない。