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前のエッセイでは、心的投影の誤謬について述べた。破れたドレス姿の娘を凌辱しようと連れ去る異星の怪物を例に挙げ、女性のセクシーさを、観察者の心のなかに存在し、おそらく異星人の心には存在しないものではなく、女性自身の性質、すなわちWoman.sexinessと考える画家の傾向に、その間違いを帰した。
「心的投影の誤謬」という用語は、偉大なる故ベイズ大師E・T・ジェインズが、呪われし頻度主義者たちとの長く激しい戦いの一環として作ったものである。ジェインズは、確率は環境のなかではなく心のなかにある、確率は無知、すなわち部分的情報の状態を表す、と考えた。そして、私がある現象について無知なら、それは私の心の状態についての事実であって、現象についての事実ではない。
この古来の戦いを短い言葉で十分に扱うことはできないが、議論の古典的な例は次のように進む。
あなたは硬貨を一枚持っている。
その硬貨には偏りがある。
どちら向きに、どの程度偏っているかは知らない。誰かが「その硬貨には偏りがある」と告げただけで、それ以上は何も言わなかった。
あなたが持つ情報はこれですべてであり、これ以外にはない。硬貨を取り出して投げ、手で押さえつける。
さて、手をどけて結果を見る前に、硬貨が表を出した確率を0.5と割り当てる、と言う気になるだろうか?
頻度主義者は言う。「いや。『確率0.5』と言うのは、その硬貨に表と裏が同じ頻度で出る内在的傾向があり、無限回投げれば、表と裏の比率が1対1へ近づくことを意味する。だが硬貨に偏りがあるとわかっているので、表が出る確率は0.5以外のどんな値でもあり得る」
ベイズ主義者は言う。「不確実性が存在するのは地図のなかであり、領土のなかではない。現実世界では、硬貨はすでに表か裏のどちらかを出している。『確率』について語るなら、硬貨そのものだけでなく、私が硬貨について持つ情報――部分的無知と部分的知識の状態――を指していなければならない。さらに、部分的知識をある特定の仕方で扱わなければ、愚かな賭けをしてしまうことを示す定理を、私はいろいろ持っている。計画を立てなければならないなら、五分五分の不確実な状態を前提にする。表を条件とする結果を、裏を条件とする結果より心のなかで重く評価しない状態である。その数を好きなように呼んでもよいが、愚かになりたくなければ、確率法則に従わせなければならない。だから、自分の結果への重みづけを確率と呼ぶことに、私はいささかのためらいもない」
私はベイズ主義者に味方する。私について、すでに気づいていたかもしれない。
公平な硬貨でさえ、投げる前から、表を出す50パーセントの確率を内在的に持つという考えは、端的に間違いかもしれない。硬貨の持ち方、投げる力、周囲の気流を所与とすれば、表か裏のどちらかがほぼ確実に出るのかもしれない。しかし、この一回について硬貨がどちらに偏っているかを知らないなら、それが何だというのか?
記憶が確かなら、徴兵抽選は不公平だと主張する訴訟があった。名前を書いた紙片が十分に混ぜられていなかったからだ。裁判官は、「誰に対して不公平なのか?」と答えた。
頻度主義者が好んで要求するように硬貨投げの実験を反復可能にするため、自動硬貨投げ機を作り、結果が50パーセント表、50パーセント裏になることを確かめてもよい。しかし、非常に敏感な目と物理学の深い理解を持つロボットなら、自動投げ機が硬貨を投げる準備をしているのを見て、硬貨の落ち方を前もって予測できるかもしれない。確実にではないが、90パーセントの正確さで。それなら、真の確率はいくつだろうか?
「真の確率」など存在しない。ロボットには一つの部分的情報状態があり、あなたには別の部分的情報状態がある。硬貨そのものには心がなく、何にも確率を割り当てない。ただ空中へ投げ上げられ、数回回転し、空気分子にぶつかり、表か裏のどちらかを上にして着地する。
以上が物事に対するベイズ主義者の見方である。ここで、確率を物体に内在する性質と考える傾向から、人の脳を悩ませる力を得ている古典的な頭の体操を二つ挙げたい。
古くからの定番を考えよう。道で数学者に会うと、彼女はたまたま、別々の機会に二人の子どもを出産したと口にする。あなたは尋ねる。「お子さんの少なくとも一人は男の子ですか?」。数学者は「はい、そうです」と答える。
彼女に男の子が二人いる確率はいくつだろうか? 子どもが男の子である事前確率を1/2と仮定すると、与えられた情報のもとで、男の子が二人いる確率は1/3である。事前確率は、男の子二人が1/4、男の子一人と女の子一人が1/2、女の子二人が1/4だった。数学者が「はい」と答える確率は、最初の二つの場合には約1、三つ目の場合には約0である。再正規化すると、男の子二人の確率は1/3、男の子一人と女の子一人の確率は2/3となる。
しかし代わりに、「年上のお子さんは男の子ですか?」と尋ね、数学者が「はい」と答えたとしよう。その場合、数学者に男の子が二人いる確率は1/2になる。年上の子が男の子であり、年下の子はどちらでも好きなほうになれるからだ。
同様に、「年下のお子さんは男の子ですか?」と尋ねた場合も、二人とも男の子である確率は、やはり1/2になる。
さて、少なくとも一人の子が男の子なら、男の子なのは年上の子か、年下の子のどちらかでなければならない。それなのに、最初の場合の答えが、後の二つの場合の答えと異なるのはどうしてだろうか?
また、よく似た問題がある。ハートのエース、スペードのエース、ハートの2、スペードの2という四枚のカードを私が持っているとしよう。私は無作為に二枚引く。あなたが「少なくとも一枚、エースを持っていますか?」と尋ね、私は「はい」と答える。私がエースのペアを持っている確率はいくつだろうか? 1/5である。二枚のカードの組合せは、等しい事前確率で六通りあり、私が2のペアを持っている可能性だけが今、除外された。残った五つの組合せのうち、エースのペアは一つだけである。したがって1/5だ。
今度は代わりに、「スペードのエースを持っていますか?」と尋ねたとしよう。私が「はい」と答えたなら、もう一枚がハートのエースである確率は1/3である。(私がスペードのエースを持っているとわかっており、もう一枚には三つの可能性がある。そのうちハートのエースは一つだけである。)同様に、「ハートのエースを持っていますか?」と尋ね、私が「はい」と答えたなら、私がエースのペアを持つ確率は1/3である。
それなら、「少なくとも一枚、エースを持っていますか?」と尋ね、私が「はい」と答えたときに、ペアを持つ確率が1/5なのは、どういうことだろうか? ご存じのとおり、私はスペードのエースかハートのエースのどちらかを持っているはずである。そしてどちらの場合も、エースのペアを持つ確率は1/3である。
どうしてこうなるのか? 私は一つ以上の確率を計算し間違えたのだろうか?
自分で解きたいなら、今のうちにそうしてほしい。これから明かすところによれば……。
以上の計算は、すべて正しい。
パラドックスについて言えば、そんなものは存在しない。パラドックスの外観は、確率がカードそのものの性質でなければならないと考えることから生じる。私が持つエースはハートかスペードのどちらかでなければならない。しかし、私のカードについてあなたが持つ知識が、私がハートを持つと知っている場合や、スペードを持つと知っている場合と同じでなければならないわけではない。
ベイズの定理を考えると役立つかもしれない。
| P(H|E) | = | P(E|H)P(H) |
| P(E) |
最後の項、つまりP(E)で割る部分は、除外された可能性をすべて捨て、残ったものの上で確率を再正規化する部分である。
ここで、あなたが私に「少なくとも一枚、エースを持っていますか?」と尋ねるとしよう。私が答える前には、私が「はい」と言う確率を 5/6とするべきである。
しかし、「スペードのエースを持っていますか?」と尋ねるなら、私が「はい」と言う事前確率はわずか1/2である。
したがって、二つの場合にまったく異なることを学んでいるのがすぐにわかる。異なる可能性を除外し、異なるP(E)を使って再正規化することになる。二つの異なる証拠を得たなら、二つの異なる部分的情報状態に行き着いても驚くべきではない。
同様に、数学者に「二人のお子さんの少なくとも一人は男の子ですか?」と尋ねるなら、3/4の確率で「はい」と聞くと予想する。しかし、「年上のお子さんは男の子ですか?」と尋ねるなら、1/2の確率で「はい」と聞くと予想する。したがって、二つの問いのどちらを尋ねたかに応じて異なる部分的知識状態に行き着いても、驚くべきではない。
「パラドックス」が見える唯一の理由は、エースを少なくとも一枚持つカードにとって、エースのペアを持つ確率がカードの性質であり、たまたまスペードのエースを含むカードの性質でもあるかのように考えることである。その場合、エースを少なくとも一枚含むカード集合が1/5という内在的なペア確率を持つ一方、スペードのエースを含むカード集合が1/3という内在的なペア確率を持ち、ハートのエースを含むカード集合も1/3という内在的なペア確率を持つのは、確かに逆説的だろう。
同様に、少なくとも一人の男の子を含む子ども集合にとって、二人とも男の子である1/3という確率が内在的な性質だと考えるなら、それは、年上の子が男の子である子ども集合が、二人とも男の子である内在的な確率1/2を持ち、年下の子が男の子である子ども集合が、二人とも男の子である内在的確率1/2を持つことと整合しない。それは、「緑のリンゴはすべて1ポンドの重さで、赤いリンゴもすべて1ポンドの重さだが、緑または赤のリンゴはすべて0.5ポンドの重さである」と言うようなものだ。
確率が、物についての部分的情報状態ではなく、物のなかにあるかのように考え始めると、このようなことが起きる。確率は物についての部分的情報状態なのである。
確率は不確実性を表し、不確実になれるのは行為主体だけである。空白の地図は空白の領土に対応しない。無知が存在するのは心のなかである。