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「実験室の外では、科学者もほかの人と同じくらいしか賢くない」。この言葉を科学者が、謙虚に、悲しげに、自分も間違いうることを思い出すために口にすることがある。もっと褒められない理由で、気に入らない専門家の助言を軽んじるために使われることもある。本当なのだろうか。絶対的な意味では、おそらく違う。科学者は平均より文字どおり少しも賢くなく、相関は文字どおりゼロだと言うのは、悲観的すぎる。
だが、ある程度は正しいように見える。そして、その事実を私たちは大いに問題視すべきだと思う。ため息をつき、悲しげに首を振って済ませてはいけない。むしろ、警戒して背筋を伸ばすべきだ。なぜか。羊飼いの見習いが、囲いを出入りする羊を数えるよう、苦労して訓練されたとしよう。それで、すべて出たか、すべて戻ったかが分かる。そこでリンゴをいくつか渡し、「何個ある?」と尋ねる。だが見習いはぽかんとする。数える訓練を受けたのは羊だけで、リンゴではないからだ。あなたは、彼は数えることをあまり理解していないのではないか、と思うだろう。
今度は、博士号を持つ経済学者が毎週宝くじを買うと分かったとしよう。こう問わなければならない。この人は本当に、期待効用を腹の底で理解しているのか。それとも、代数のいくつかの操作を行う訓練を受けただけなのか。
リチャード・ファインマンが語った、うまくいっていない物理教育の話を思い出す。
学生たちはすべて暗記していたが、何の意味かは何も知らなかった。「屈折率を持つ媒質から反射する光」と聞いても、それが水のような物質を意味するとは分からなかった。「光の向き」とは、何かを見るときに、それが見える向きなのだということも分からなかった。すべて丸暗記されていたが、意味のある言葉には何も置き換えられていなかった。だから「ブリュースター角とは何か?」と尋ねれば、正しいキーワードでコンピューターにアクセスできる。だが「水を見てごらん」と言っても、何も起きない。「水を見てごらん」の項目には、何も入っていないのだ!
一見有能な科学者がいて、N人を対象とする実験を設計できるとしよう。N人には処置を無作為に割り当て、条件を知らされない評価者が結果を分類する。それをコンピューターで処理し、0.05の有意水準で統計的に有意かどうかを見る。これは単なる儀礼的伝統ではない。サラダに正しいフォークを使うような、恣意的な礼儀ではない。仮説を実験で検証するための儀礼的伝統なのだ。なぜ仮説を実験で試すべきなのか。論文を載せる前に学術誌から要求されるから? 大学でそう習ったから? 全員が口をそろえて実験は重要だと言い、反対すれば変な目で見られるから?
違う。領土の地図を作るには、外へ出て領土を見なければならないからだ。居間で目を閉じ、街がこうだったらいいなと楽しい空想をしながら、正確な地図を作ることはできない。出かけて街を歩き、見たものに対応する線を紙に描かなければならない。同じことは、靴ひもがほどけていないか足元を見るたびに、小規模に起きている。太陽から光子が届き、靴ひもで跳ね返り、網膜に当たり、ニューロンの発火頻度へ変換され、視覚野で靴ひもの現在の形と強く相関する活動パターンへ再構成される。領土について新しい情報を得るには、領土と相互作用しなければならない。脳の状態が環境の状態と相関するようになる、現実の物理過程が必要だ。推論過程は魔法ではない。どう働くかを因果的に記述できる。つまり、何かを知るには、見に行かなければならないのだ。
では、実験室では有能に見えるのに、外では霊の世界を信じる科学者を、どう考えればよいだろう。理由を尋ねると、「本当のところは誰にも分かりませんし、証拠がないのは認めます。宗教的な信念なので、観察ではいずれにせよ反証できません」というような答えが返る。私には、この人はなぜ物を見なければならないか、文字どおり分かっていないとしか思えない。実験という一定の儀礼は教わったかもしれないが、その理由を理解していない。領土を地図にするには見る必要があり、環境について情報を得るには、環境と相互作用して相関するようになる因果過程を経なければならないということを。これは、新しい医療機器の効果を調べる二重盲検実験にも、靴ひもについて情報を集める目にも、同じように当てはまる。
霊を信じるその科学者は、こう言うかもしれない。「でも、これは実験の問題ではありません。霊が私の心に語りかけたのです」。さて、本当に霊が何らかの仕方で語りかけると仮定するなら、それは因果的相互作用であり、観察に数えられる。確率論は依然として適用される。「霊の声」という個人的体験が、実在する霊の証拠だと提案するなら、「霊の声」のほかの説明に対し、霊がその声を生んだという説明に有利な尤度比があり、それが多数の部分を持つ複雑な信念の低い事前確率を覆すほど大きい、と提案しなければならない。「霊が私の心に語りかけた」が「因果的相互作用」の一例だと分からないのは、物理の学生が「屈折率を持つ媒質」は水のような物質のことだと分からないのと同じだ。
白衣の人は「因果的相互作用」と言い、派手な装身具の人は「霊の語りかけ」と言うので、惑わされやすいのかもしれない。誰もが知るように、違う服装の論者たちは独立した存在領域を区切っている。スティーヴン・J・グールドの、忘れがたい失言で言えば「重複しない教導権」だ。実際には、「因果的相互作用」は「何か別のことを起こすもの」を立派に言っただけで、確率論はあなたの服装を気にしない。
現代社会では、霊的な事柄は論理や観察で決着できないので、宗教については何でも好きに信じてよい、という考えが広くある。科学者がこれに引っかかり、実験室の外ではそのとおり生きるなら、私には、それは実験の原理を社会的な慣習としてしか理解していないしるしに見える。いつ実験をして統計的有意性を確かめることが期待されているかは知っている。だが、見もせずに奇妙な信念をでっち上げるのが社会的な慣習である場に置けば、同じように喜んでそうする。
羊飼いの見習いは、「7」頭が出て、「8」頭が出たなら、「15」頭が戻らなければならないと教わる。なぜ「14」や「3」ではなく「15」なのか。そうでなければ今晩の夕食は抜きだからだ! それも一種の職業訓練で、ある程度は機能する。だが、7頭と8頭が15頭になる理由が社会的慣習だけなら、リンゴ7個と8個は3個になるかもしれない。リンゴには違う規則があってはいけないと、誰に言えるのか。
だが規則がなぜ働くか知っていれば、足し算は羊でもリンゴでも同じだと分かる。アイザック・ニュートンが正当に尊敬されるのは、今では古くなった重力理論のためではない。輝かしい天にある惑星も、驚くべきことに、落ちるリンゴとまったく同じ規則に従うと発見したからだ。巨視的な世界、祖先の日常環境では、木が違えば実も違い、人や時が違えば慣習も違う。固定された普遍法則を持つ、本当に統一された宇宙という考えは、人間にはひどく直感に反する! 「万物の一体性」をうまく語る宗教があっても、本当に信じているのは科学者だけなのだ。
リチャード・ファインマンは、こう言った。
一杯のグラスを十分に詳しく見れば、宇宙全体が見える。物理学の対象がある。風や天候に応じて蒸発する、渦を巻く液体。ガラスに映る反射。そして想像力が原子を付け加える。ガラスは地球の岩石から精製されたもので、その成分には宇宙の年齢と星の進化の秘密が見える。ワインには、どんな奇妙な化学物質が並んでいるのか。どう生じたのか。発酵体、酵素、基質、生成物がある。ワインには、生命はすべて発酵である、という偉大な一般化が見つかる。ワインの化学を発見する者は、ルイ・パスツールがそうしたように、多くの病気の原因をも発見せずにはいられない。クラレットは何と鮮やかに、自分を見る意識へ存在を押しつけることか! 私たちの小さな心が、何かの都合でこの一杯のワイン、この宇宙を、物理学、生物学、地質学、天文学、心理学などの部分に分けても、自然はそんなことを知らないと覚えておこう! だからすべてを元どおり一つにしよう。結局何のためなのかを忘れずに。最後にもう一つ楽しませてもらおう。飲んで、すべて忘れてしまおう!
いくつかの宗教、とくにニュートン以後に作られたり作り直されたりした宗教は、「すべてはすべてとつながっている」と公言するかもしれない。(グラフとその補グラフのあいだには自明な同型の対応があるので、この深遠な知恵が伝える有用な情報は、辺が一本もないグラフとまったく同じだ。)だが、宗教の具体的な中身となると、預言者や聖職者は、人間の古くからの習慣に従い、その場その場で作り上げる。12歳未満の女性には一つの規則、13歳を超える男性には別の規則。安息日には一つ、平日には別の規則。科学には一つ、魔術には別の規則……。
驚きながら学んできたように、現実は別々の領域の集まりではない。数学的に単純な基礎レベルの規則に従う、一つの統一された過程だ。大学の違う建物が、違う宇宙に属するわけではない。ときにはそう見えても。宇宙は心と物質、生命と非生命に分かれてはいない。頭の中の原子は、周りの空気の原子と、切れ目なく相互作用する。ベイズの定理も、場所によって変わるものではない。
ある科学者が専門外では、ほかの人と同じくらい奇妙な考えに引っかかるなら、おそらく科学の規則がなぜ働くか、そもそも理解していなかったのだ。ポパー流の反証主義を少し復唱できるかもしれない。だが、確率論の代数の水準や、機械としての認知の因果の水準で、深く理解してはいない。実験室で一定の振る舞いをするよう訓練されただけで、証拠に制約されるのは好きではない。家へ帰れば白衣を脱ぎ、心地よいでたらめでくつろぐ。そして確かに、そんな科学者の意見を、専門分野でさえ信じてよいのかと私は思う。とくに、議論のある問題、未解決の問い、膨大な証拠と社会的慣習ですでに固定されていないことについては。
もしかしたら、この格言を乗り越えることもできる。仕事だけでなく、私生活でも合理的になることだ。ただの格言に止められるべきではない。ヴォルテールも言った。「気の利いた言葉は、何も証明しない」。規則がなぜ働くか分かるほど確率論を学び、実際の場面にどう当てはまるか分かるほど実験心理学を学べば、もっとよくできるかもしれない。水を見ることを学べるなら。その野心には、専門外なら誰とも変わらないと告白することの、心地よい謙遜はない。だが、合理性の理論を日常生活へ一般化できないなら、何かを間違えている。実験室の中と外は、別の宇宙ではないのだ。