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創造論は「超自然的なもの」を持ち出すので、アプリオリに、自動的に科学的検討から除外される。だから学校で、とりわけ進化論と競合する仮説として教えるべきではない。そう主張する人を、ときどき見かける。
つまり……創造論は正しいかもしれないが、たとえ正しくても、科学は「自然的な」ものしか扱わないので、理科の授業では教えることが許されない、ということだろうか。
この考えは、科学と宗教の衝突を避けたいという願いから生まれたように、十分はっきり見える。宗教上の主張Xを科学で教えないのは、Xが科学的方法で検証され、誤りと判明したからだ、と率直には言いたくない。そこで代わりに……ええと……科学は仮説Xをアプリオリに除外している、と言えばよい。そうすれば、実験がXをアポステリオリにどう反証したか、議論しなくて済む。
もちろんこれは、インテリジェント・デザインは科学から公正に扱われず、証拠と無関係に無神論に有利な予断が下されている、という創造論者の主張にうってつけだ。もし科学がインテリジェント・デザインをアプリオリに除外しているなら、この不満は正当だろう!
だが、少し戻ろう。誰かがあなたにこう言う。「インテリジェント・デザインは、アプリオリに科学から除外される。『超自然的』であり、科学は『自然的』な説明しか扱わないからだ」。
「超自然的」とは、正確には何を意味するのか。コーエンという姓の人が考えた説明は、どれでも超自然的なのだろうか。ある仮説の集合を科学から即座に追い出すなら、何を除外するつもりなのか。
私が聞いた超自然的なものの定義の中で、群を抜いてよいのはリチャード・キャリアーの定義だ。「超自然的な」説明は、存在論的に基本的な心的なもの、つまり非心的な実体に還元できない心的実体を持ち出す。
これはたとえば、水が坂を下るのは、低いところへ行きたがるからだと言うのと、欲望でなく運動だけを記述するとする微分方程式を示すのとの違いだ。木が葉を出すのは木の精霊のためだと言うのと、植物の生化学を調べるのとの違いでもある。認知科学は、超自然主義との戦いを心の領域へ持ち込む。
なぜこれが優れた定義なのか。詳しい議論はキャリアーを参照してほしい。だが、こう考えてみよう。木に住む精霊らしきものを発見したとする。木の内外に姿を現し、自分の木を守る必要があると英語で語るドライアドだ。そこで顕微鏡を向けると、その木の精霊も部品からできているとわかった。欲望の織物や信念の布のような、本質的に霊的で言い表せない部品ではなく、クォークや電子と同じ類いの、心ではなく運動によって振る舞いが定まる部品だ。そのドライアドはたちまち、ありふれたものの退屈な目録へ格下げされないだろうか。
だが、キャリアーの定義を受け入れると、ジレンマが生じる。宗教上の主張にも公正な機会を与えたいのに、超自然的な説明をアプリオリに除外する非常によい根拠があるように見えるのだ。
というのも、もし還元主義が誤っていたら、宇宙はどんな姿をしているのだろうか。
私は以前、還元主義の主張を次のように定義した。人間の心は現実について多階層のモデルを作り、そこでは高次と低次のパターンが別々に、明示的に表現される。物理学者は、ニュートンの重力方程式、アインシュタインの重力方程式、そして前者を後者の低速近似として導く方法を知っている。だが、この三つの別々の心的表現は、人間の認知の都合にすぎない。現実そのものに、高速域を支配するアインシュタイン方程式、低速域を支配するニュートン方程式、両者の境界を滑らかにする「橋渡し法則」があるわけではない。現実にはただ一つの水準、アインシュタインの重力があるだけだ。高次の水準も別に存在できるかのように語らせるのは、心の投影の誤謬にすぎない。組織化の階層ごとに人間の地図では別の表現を持てても、現地そのものは、一つに統合された低次の数学的対象なのだ。
これが間違っていたとしよう。
心の投影の誤謬が誤謬ではなく、そのまま真実だったとしよう。
747型機を構成するクォークとは別に、747型機そのものに根本的な物理的存在があるとしよう。
そんな宇宙にいたら、どんな実験的観察ができると予想するだろうか。
これにうまく答えられないなら、「非還元主義的な」信念を排除しているのは観察ではなく、アプリオリな論理的不整合だ。「非還元主義的」モデルが何を予測するか言えないなら、どうして実験的証拠がそれを排除すると言えるのか。
私の主張は、非還元主義とは混乱だということだ。ある考えが混乱だと気づくと、その混乱が真だった場合の宇宙を想像するのは、少し難しくなる。たとえば、世界の多階層モデルを持ち、それが物理の因果要素と一対一に直接対応しているのだろうか。だが、規則をすべて指定したら、そのモデルも、基本的なものと相互作用を列挙した別の一層のモデルになるのではないか。747型機や人間の心など、モデルの中に見て取れるものは、すべて別々の実在になる必要があるのか。だが、その新しい上位の系に、またパターンを見いだしたら?
超自然主義は非還元主義の特殊な場合で、還元不能なのは747型機ではなく、心的なものの一部だけである。宗教は超自然主義の特殊な場合で、還元不能な心的なものが神々と魂、そしておそらく罪、天使、カルマなどである。
私たちが観察する宇宙の各要素を見渡し、変更できる強力な存在を提案したとしよう。ただしその存在は非心的な部分へ還元でき、それらの部分は、宇宙の要素と法則に従って相互作用する。また、その存在は特定のものを望むが、粒子と場からできた脳を使って「望む」のだとしよう。これだけでは宗教ではなく、自然的なマトリックスについての自然主義的仮説にすぎない。明日、雲が割れ、巨大に輝く不定形の姿が現れて、この現実の説明を雷鳴のように告げたとしても、その存在が必ず正直だとは限らない。だが私は、その映像を理科の授業で見せ、理論から検証可能な予測を導こうとするだろう。
逆に宗教は、あの古く、身体のないものの発見を無視した。自然の働きのあらゆるところにあり、落ちる一枚一枚の葉に宿るもの。惑星の表面ほど広大で、数十億年を生き、誰にも作られず、物理の構造から生じ、脳なしに設計して、地球のすべての生命と人間の心を形作るもの。ダーウィンが自然選択を提唱しても、待ち望まれた創造者として迎えられはしなかった。それは根本的に心的ではなかったからだ。
だが、ここでジレンマに至る。物理と脳についての、落ち着いた、従来どおりの、普通で退屈な理解が正しいなら、ものが還元不能に心的である別の宇宙を、人間が具体的に想像し、検証可能な実験的予測を導く方法は、原理的に存在しない。退屈で古く普通のモデルが正しければ、あなたの脳はクォークでできているからだ。だから脳が具体的に思い描き予測できるのは、クォークにも予測できるものだけだ。構築できるモデルは、相互作用する単純なものからできたものだけになる。
還元主義的な宇宙に住む人は、非還元主義的な宇宙を具体的には想像できない。「非還元主義的」という音節を発することはできても、それを想像することはできない。
擬人化の基本的な誤り、そして超自然的な説明が実際よりずっと単純に聞こえる理由は、「心のあるもの」というラベルがついた別のものを予測するために、脳が自分自身を中身の見えないブラックボックスとして使うことだ。ものを「欲する」ための巨大で複雑な神経回路網はすでに備わっているので、坂を流れ下り「たがる」水を簡単に記述できるように感じる。「欲する」という一語が、自分自身の複雑な欲求の機構を動かすレバーとして働くのだ。
あるいは、神は美しいものが好きだから花を作った、と想像する。何が「美しく」、何が「美しくない」かを決めるのは、あなた自身の「美」の回路だ。だが、自分のシナプスの配線図は知らない。「美しい」「美しくない」という同じラベルを計算する非心的な系は記述できず、自分の判定を予測するプログラムも書けない。だが、それはあなたの知識が足りないだけで、脳に説明がないという意味ではない。
現実の「退屈な見方」が正しければ、還元不能なものを予測することは決してできない。あなた自身が還元可能だからだ。還元不能性の仮説について、ベイズ的な確証は決して得られない。あなたにできる予測なら、それゆえに、還元可能なもの、すなわちあなたの脳にも予測できることだからだ。
本当に、その外へは考え出られない枠もある。宇宙が本当にチューリング計算可能なら、チューリング計算不可能なものを具体的に思い描くことは、決してできない。数学者が停止問題のオラクルの階層を何段も論じられるとしても、単に計算可能な推論と実験的に区別できる形で、停止オラクルが実際に何を答えるかは予測できない。
もちろん、これはすべて「退屈な見方」が正しいと仮定した話だ。進化が真だと信じるその程度に応じて、進化に反する強い証拠に出会うとは予想すべきでない。還元主義が真だと信じる程度に応じて、非還元主義的な仮説は、誤っているだけでなく首尾一貫していないとも予想すべきだ。超自然主義が偽だと信じる程度に応じて、それは思い描けないものでもあると予想すべきだ。
逆に、超自然的な仮説が真だとわかったなら、おそらく、それは思い描けないものではなかったともわかるだろう。
では一巡して、インテリジェント・デザインの話へ戻ろう。
IDは、超自然的なものを持ち出して自然哲学の外へ出たのだから、実験による反証や理科の授業からアプリオリに除外すべきなのだろうか。
私の答えは、「もちろん違う」だ。知的設計者の還元不能性は、ID仮説に不可欠な部分ではない。ID論者が提案できるどんな還元不能な神にも、同じ予測に従って振る舞う、還元可能な異星人を対応させられる。ID論者自身が還元可能だからだ。私は還元主義が実際に正しいとかなり強く信じているので、その程度に応じて、超自然的とされるあらゆる予測モデルに、還元可能な定式化が見つかると予想しなければならない。
エホバが超人的な力を示したいという明確な欲求から紅海を分けた、という主張を検証するため考古学の記録を調べるなら、エホバが存在論的に基本的なのか、ナノテクノロジーを持つ異星人なのか、マトリックスの暗黒卿なのかは、大した違いではない。考古学的に調べ、紅海の現場に骨や鎧の残骸が見つからず、しかも当時エジプトがカナンの大部分を支配していた記録が見つかる。そこで、聖書の歴史記述に「反証済み」と判を押して先へ進む。その仮説は首尾一貫していて、反証可能で、間違っている。
キツネはウサギを追うように、ウサギはキツネを逃れるように設計されていて、どちらも「種を存続させる」「自然の調和を守る」ためには設計されていないという生物学的証拠も同じだ。網膜が裏返しに設計され、光を感じる部分が奥にあることも同じだ。他にも、分裂した、不道徳で無能な設計の証拠が、千もある。私たちの異質な神をエホバとするモデルは、首尾一貫していて、反証可能で、間違っている。ただし、エホバが存在論的に基本的なのか、単なる異星人なのかを気にしない限りで、一貫しているのだ。
超自然的な仮説を、対応する自然的な仮説に変えればよい。同じ予測を同じ方法で行い、心的なものが存在論的に基本的だという主張をやめればよい。予測に必要なら、自分の脳というブラックボックスを参照してもよい。たとえば、行動を怒りかそうでないかに分類するために本格的な怒れるAIを作らずに、「怒れる神」を論じたい場合だ。こうして予測を導くか、私たちの実験結果を事前には知らなかった昔の神学者の予測を調べる。実験がその予測に反すれば、宗教上の主張は科学的に反証されたと言ってよい。確証を得る公正な機会は与えられた。除外はアプリオリにではなく、アポステリオリに行われているのだ。
結局、還元主義とは、根本の水準で複雑なものを信じないことにすぎない。「根本の水準で複雑」が矛盾した表現に聞こえるなら……それこそ、私が非還元主義を、ありえたが実際には違った世界の姿ではなく、混乱だと考える理由だ。そんなものを仮定している自分に気づいたら、用心するのが賢明だろう。
だが科学の究極の規則は、目を向けて確かめることだ。神が現れて山々に雷鳴をとどろかせることがあれば、それは人々が目を向けて見たものになるだろう。
系:汎用人工知能の設計者と称しながら、宗教的信念を敬意のこもった口調で語る人は、心的なものを非心的なものへ還元することについての知識の専門家ではないのが明白だ。基本の基本についてさえあまりに無知なので、その技術を使いこなす専門家であるというのも、まず考えにくい。サヴァン的な能力の偏りが徹底している場合を除けば。もちろん、あからさまに嘘をついている場合も別だ。ここで話しているのは微妙な間違いではない。