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「合理性」という名前をつけた主題について人々に教えるには、その人々が「合理性」に関心を持っていると都合がよい。(人々に領土を映す地図を得る方法や、自分の価値観に従って現実を最適化する方法を教えるには、もっと間接的なやり方もある。だが私が選びがちなのは、まさに明示的な方法である。)
そして、自分が合理性に関心を持たない理由を説明する人々が、最もよく持ち出す理由の一つは、たいてい次のようなものだ。「ああ、合理的な人を何人か知っていたけれど、別に幸せそうではなかったよ」。
その人たちは誰を思い浮かべているのだろうか。おそらく客観主義者か、その手の人だろう。知り合いの普通の科学者かもしれない。あるいは普通の無神論者かもしれない。
以前にも述べたとおり、それは実際のところ、合理性としては大した量ではない。
ベイズの定理を導出できる人だけに対象を絞っても――そうすれば今挙げた人々の、どれくらいだろう、98パーセントは除外されるはずだ――それでも合理性としてはまだ大した量ではない。つまり、これはかなり基礎的な定理なのだ。
私は当初から、何らかの認知の訓練体系、何らかの思考の技法が存在するべきだという感覚を抱いていた。それを学んだ者が、目に見えて有能に、手強くなるような技法である。いわば凄さのレベルが一つ上がることに相当するものだ。
だが現実の世界を見回しても、そんなものは見当たらない。ロビン・ドーズ、ダニエル・ギルバート、ジョン・トゥービー、レダ・コスミデスといった人々の文章を読むとき、ときおり、可能であるはずだと私が思うものの兆し、残響が見えることはある。心理科学分野でもごくまれな、きわめて高位の研究者たちであり、合理性を目に見えて大いに気にかけている――気にかけすぎるのは格好よくないので、同僚を居心地悪くさせているのではないか、と私は思うほどに。彼らは一つのリズム、議論全体に浸透しはじめる統一性を見いだしていることが分かる――
だがそれでさえ……実のところ、合理性としてはやはり大した量ではない。
手強さの芽生えを垣間見せて私を感心させる、その少数の人々でさえ――彼らの合理性の熟達度が、たとえばジョン・コンウェイの数学の熟達度に比肩するとは思わない。私たちが理解を築くために利用した基礎知識は――それを見つけるために学ばなければならなかったすべてではなく、実際に用いた部分だけを抽出したなら――専門の原子力技術者が原子力工学について知っていることにはおそらく及ばない。橋について建設技術者が知っていることにさえ、及ばないかもしれない。私たちは自分の技量を練習してはいる。本当にしている。ただし、自分で覚えた場当たり的な方法で、である。その練習はおそらく、オリンピック走者のこなす訓練計画には及ばないし、ひょっとすると普通のプロテニス選手にさえ及ばない。
そして、この問題の根は、私たちが本当の意味で集まり、技量を体系化してこなかったことにあるのではないかと私は思う。私たちはこれらすべてを、自分たちのために場当たり的に作り出さなければならなかった。外部の分野で行われた研究をどうにか利用できるとしても、一つの精神にできることには限界がある。
これを本来あるべきやり方で実行するうえで最大の障害は、合理性訓練プログラムの成果を検証することが難しく、そのため証拠に基づく訓練法を持てないことである。この点についてはさらに書くつもりだ。訓練の成功を認識し、失敗と見分けることこそが、進展を阻む本質的な障害だと思うからである。
特定のバイアスを除去する介入については、ときどき実験が行われる。だが、たいていは「学生にこれを一時間練習させ、二週間後に試験する」といったものだ。「三か月の夏季訓練プログラムの参加者の半数にはバージョンAを、残り半数にはバージョンBを受けさせ、五年後に調査する」ではない。ここから、合理性に本気で真剣な人々を対象にした訓練プログラムには、私がどれほどの労力を注ぐべきだと考えているかが分かるだろう。「一時間かそこらの労力で済む気軽な一撃」を試す態度とは対照的である。
ダニエル・バーフットは、これこそ知能が合理性のこれほど大きな要因に見える理由ではないかと、見事に示唆している。ほとんど訓練も体系的な練習もなく、すべてを場当たり的に即興でこなすとき、残った部分を左右する最重要の要因が知能になってしまうというのである。
なぜ「合理主義者」は、目に見える手強さのオーラに包まれていないのか。なぜ、思考と多少なりとも関係する基準で選抜されたあらゆる精鋭集団の頂点に、彼らが見つからないのか。なぜ「合理主義者」の大半は、平均をやや上回る知能を持ち、こだわりの話題が一つ多いだけの普通の人に見えるのか。
これにはいくつか答えがある。だがその一つは確実に、彼らが合理性について受けた体系的な訓練は、初段の黒帯が人を殴ることについて受ける訓練よりも、体系性の乏しい文脈で行われた、体系性の乏しいものだったからである。
この批判から自分を除外するつもりはない。私もベイズ使いではない。一人で作り出せる〈技法〉には限りがあり、成果について証拠に基づく統計がなければ、うまく推測できる程度にも限りがあるからだ。私が知っているのは、合理性の一つの用法だけである。「混乱を招く認知を還元すること」と呼べるかもしれない。私は自分の脳にこれを求め、脳はこれを与えてくれた。成熟した合理性訓練プログラムなら、教えずに済ませはしないだろう別の技法があると私は思う。それを身につければ、私はもっと強く、幸せで、有能になれるだろう――効果が実験で実証された教授法の精華を用いる標準化された訓練プログラムを受けさえできれば。だが、一から合理性のこの一つの下位技法を作るために私が注いだような、とてつもなく集中的な努力を、もう一度受け入れる余地は私の人生にはない。
私は自分を、初段の黒帯を上回りながら、同時に下回る者だと考えている。レンガなら拳で打ち抜けるし、金剛石へ至る途上で今は鋼に取り組んでいる。だが蹴ること、投げること、受けることについては、ただの街の喧嘩屋程度の理解しかない。
なぜ武術の道場はあるのに、合理性の道場はないのか。(これは私が最初のブログ記事で投げかけた最初の問いである。)考えることより、人を殴ることのほうが重要なのだろうか。
そうではない。だが人を実際に殴ったかどうかは、より簡単に確かめられる。これは理由の一部であり、きわめて中心的な部分である。
だが、おそらくそれ以上に重要なのは――世の中には、殴りたいと望む人々がいることだ。そして彼らは、殴るための体系的な技法が存在するべきであり、それを身につければ、未経験者のもがきを超える速度と優美さと強さを持った、目に見えて手強い闘士になれるはずだと考えている。そこで彼らは、それを教えると約束する道場へ行く。その道場が存在するのは、はるか昔に、もっと多くが可能だという感覚を抱いた人々がいたからだ。彼らは集まり、技を共有し、練習し、形式化し、また練習し、〈体系的な殴打の技法〉を発展させた。彼らがそこまで自分を追い込んだのは、自分たちは凄い存在になるべきだと思い、そこへ相応の力を注ぐ意志があったからである。
そして彼らは、凄さを目指しながら失敗したほかの無数の志と違い、その志によって実際にどこかへ到達した。人を殴ったかどうかを判定でき、勝者が明確に定まる現実的な競技で、道場同士が定期的に競い合ったからである。
だがそれよりもさらに前に――まず志があり、強くなりたいという願いがあり、もっと多くが可能だという感覚があった。今は持っていないが、多くの努力を注ぐ意志さえあれば、持つことができる速度と優美さと強さの展望があり、それが彼らを駆り立て、体系化し、訓練し、検証させたのである。
なぜ私たちには〈合理性の技法〉がないのか。
第三に、現在の「合理主義者」は集団で活動するのが苦手だからだ。この点については、さらに語るつもりである。
第二に、訓練の成功や、二つの流派のどちらが強いかを確かめることが難しいからだ。
だが第一に、人々には、合理性は武術のように体系化し、訓練し、検証するべきものであるという感覚が欠けているからだ。合理性の背後には原子力工学と同じくらいの知識があるべきで、その最高の達人はチェスのグランドマスターと同じくらい熱心に練習するべきで、成功した実践者は明白な凄さのオーラに包まれるべきなのである。
そして逆に、目に見えて増した手強さが欠けているのを見て、「私たちは何かを間違えているに違いない」とも言わない。
「合理性」はただ、人々がパーティーで語る、もう一つの趣味やこだわりに見える。現実の帰結をほとんど、あるいはまったく伴わない、会話上の装いとして取り入れられた様式にすぎない。そして、それが悪いことだとも思われていない。