非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

「創発」という説明の空しさ

The Futility of Emergence

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フロギストン説や生気論の失敗を指摘するのは、歴史を後知恵で眺めることだ。あえて危険を冒して、同じように欠陥があると思う現在の理論を、名指ししてみようか。

私が挙げるのは、創発、あるいは創発現象だ。通常これは、多数の低次の要素の相互作用から、高次の振る舞いが生じる、つまり「創発する」システムの研究と定義される。(Wikipediaによれば、「比較的単純な多数の相互作用から、複雑なシステムやパターンが生じる仕方」。)文字どおりに受け取れば、この説明は宇宙にある、個々のクォークより上の階層のあらゆる現象に当てはまる。それも問題の一部だ。市場の暴落を指して「これはクォークではない!」と言うところを想像してほしい。説明になっている気がするだろうか? しない? ならば「これは創発現象だ!」と言っても、説明になった気がしてはいけない。

私が異議を唱えているのは、「〜から創発する」という動詞ではなく、「創発」という名詞だ。「XはYから創発する」と言うこと自体に問題はない。Yが、内部に動く部品をもつ、具体的で詳細なモデルであればよい。「〜から生じる」も、まったく同じことを意味する正当な表現だ。一般相対性理論という具体的な数学モデルに従えば、重力は時空の曲がりから生じる。量子電磁力学という具体的なモデルに従えば、化学は原子間の相互作用から生じる。

では、私が重力は「生じ性」で説明できるとか、化学は「生じる現象」だとか言い、それを自分の説明だと主張したらどうだろう。

「〜から創発する」という言い方は、「〜から生じる」や「〜によって引き起こされる」と同じように、ある具体的なモデルを示し、そのモデル自体のよしあしで評価できるなら、問題ない。

しかし、「創発」は通常、そのようには使われていない。「創発」は普通、それ自体が説明として使われている。

「知性は創発現象だ!」と、それで知性を説明したかのように言う人を、何度見聞きしたかわからない。この使い方は、謎めいた問いに対する謎めいた答えのチェック項目を、すべて満たしている。知性は「創発的」だと言った後、何がわかっただろうか? 新しい予測は何一つできない。現実の心の振る舞いについて、以前知らなかったことを新たに知ったわけでもない。新しい事実を信じたように感じるが、予想する結果は何も変わらない。好奇心は満たされたように感じるが、何も食べさせてもらっていない。その仮説には動く部品がなく、操作できる詳細な内部モデルもない。「創発」という仮説を差し出す人々は、内部の仕組みを知らないと認め、それを誇る。「創発」の科学を、ほかのありふれた科学と対比させるのだ。

しかも、「なぜか? 創発だ!」という答えが与えられた後も、その現象は謎のままで、最初と同じ、神聖で見通しのきかない性質を保っている。

面白い練習を一つ。「創発的な」という形容詞が出てくる文からそれを取り除き、文の内容が何か変わるか確かめてみよう。

もう一つ面白い練習がある。「創発的」という語を、創発が考案される前に人々が使うしかなかった、昔の言葉、昔の説明に置き換えるのだ。

それぞれの文が、現象の振る舞いについて伝える知識の量は、まったく同じではないか? それぞれの仮説は、まったく同じ結果の集合に当てはまるのではないか?

かつて「魔法」と言うのがとても流行したように、「創発」はとても人気になった。「創発」は、同じ理由で人間の心理に同じように深く訴えかける。「創発」は実にお手軽な説明で、口にすると気分がいい。崇拝できる神聖な謎を与えてくれる。「創発」が人気なのは、好奇心にとってのジャンクフードだからだ。創発を使えば何でも説明できるので、人々は実際に何でも説明する。説明できるというのは、とてもすばらしい気分だからだ。大学で科学の授業をいくつか受けていても、人間は人間のままだ。確立された科学の足かせから逃れる方法を見つけると、祖先と同じごまかしを始める。「科学」という文学ジャンルをまとってはいるが、人間は依然として人間であり、人間の心理は依然として人間の心理なのだ。