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宇宙にあるものの大半には心がない、と判明している。
この言明は、昔の多くの文化で信じがたいものと受け取られただろう。通常使われる用語は「アニミズム」である。木、岩、川、丘にはどれも霊があると、彼らは考えた。まあ、あって何が悪いのか?
つまり、「人間」と呼ばれる肉の塊が思考を含むのなら、「木」と呼ばれる木材の塊が含まないのはなぜだろうか?
私の筋肉は私の意志で動き、水は川を流れる。川には水を動かそうとする意志がないと、誰が言えるのか? 川が堤を越え、部族の集会場所を水浸しにしたなら、川が自分の一部を動かして私たちを傷つけたのだから、怒っていたと考えてもよいのではないか? 誰かの拳が鼻に当たったとき、私たちならそう考える。
これがあり得ないとする明白な理由――狩猟採集民にとって明白な理由――は何もない。これが愚かな間違いに見えるのは、奇妙さと愚かさを混同する場合だけである。川に生命を与える霊があるという信念が、私たちの部族の信念ではない以上、私たちに「奇妙」に見えるのは当然である。しかし、動く肉からなる私たち自身の塊と同じく、動く水の巨大な塊にも霊があると考えることは、明らかに愚かではない。
その考えが明らかに愚かなら、誰も信じなかっただろう。長い間、地球は静止して見えるのに動くという、明らかに愚かな考えを誰も信じなかったのと同じである。
木が考えられないことは明らかだろうか? 忘れてはならないが、木は実際に私たちの遠い親類である。十分遠くまでさかのぼれば、あなたとシダには共通祖先がいる。肉の塊が考えられるなら、木材の塊が考えられないのはなぜだろうか?
木材が考えないことを明らかにするには、顕微鏡を持つ文化に属していなければならない。どんな顕微鏡でもよいわけではなく、本当に優れた顕微鏡が必要である。
アリストテレスは、脳は血液を冷やすための器官だと考えた。(脳について私たちが信じることは、脳の実際の働きにほとんど影響を与えない。ありがたいことだ。)
エジプト人は、ミイラ化の過程で脳を捨てた。
紀元前5世紀のピュタゴラス学派、クロトンのアルクマイオンは、眼から脳まで視神経をたどったことから、知性の座は脳だと突き止めた。それでも、彼が持っていた証拠の量を考えれば、推測にすぎなかった。
脳が中心的役割を担うことは、いつ推測ではなくなったのだろうか? 私はこの問いに答えられるほど歴史を知らず、おそらく明確な境界線もなかった。誰かが神経の解剖構造をたどり、脳への神経接続を切断すると運動と感覚が遮断されると発見した時点に置けるだろうか?
それでも、神経を通って動くのは神秘的な霊にすぎない。人間の解剖構造に見つかる小さな糸を欠いていても、木材や水が別の手段で同じ神秘的な霊を運べないと、誰が言えるのか?
私はオンラインで時間をかけ、誰かが脳のニューロンの途方もなく入り組んだ内部構造に気づき、「おい、この巨大なもつれが、複雑な情報処理をしているに違いない!」と言った正確な瞬間を探そうとした。あまりうまくいかなかった。(カミッロ・ゴルジではない。回路が入り組んでいることはゴルジ以前から知られていた。)そこにも、分水嶺となる瞬間はなかったのかもしれない。
しかし、その入り組みの発見、チャールズ・ダーウィンの自然選択説、計算としての認知という考えが、擬人化が明らかに誤ったものへ転落し始める、漸進的な出発点だと私は考える。
その時点なら、木を見て、こう言える。「木の生物学には、複雑な情報処理をしているものが何も見当たらない。行動にも見当たらない。木の行動に影響しない形で隠れているなら、そのような複雑な情報処理を求める選択圧はどうやって生じるのか?」
その時点なら、川を見て、こう言える。「水には、遠隔的な遺伝と大幅な変異を伴って複製され、反復的な選択を受けるパターンが含まれない。それなら川が、脳ほど複雑で機能的に最適化されたパターンを、どうやって持つようになるのか?」
その時点なら、原子を見て、こう言える。「怒りは単純に見えるかもしれないが、単純ではない。原子ほど単純なもののなかには、怒りを収める余地がない。クォークの内部に、亜粒子からなる宇宙全体があるなら別だが、それでも、原子が怒っている徴候を見たことはない以上、私たちが知る高水準の現象には何の影響も与えないだろう」
その時点なら、子犬を見て、こう言える。「子犬が何か悪いことをすると、親犬は地面へ押さえつけるかもしれないが、だからといって子犬が道徳的推論をしていることにはならない。現在の進化心理学の理論によれば、道徳的推論は、それより複雑な社会的課題への反応として生じた。完全に発達した人間の形では、道徳的適応は、部族政治について言語で議論することによる選択圧の結果である」
その時点なら、岩を見て、こう言える。「これには、チェスプログラムに実装された単純な探索木さえない。かつてアリストテレスが考えたような、意図――坂を転がり落ちたいと望む意図――を、どこから得るのか?」
次のように記されている。
荘子と恵子が濠水の堰を歩いていると、荘子が言った。「見よ、小魚が出てきて、思いのまま泳ぎ回っている! 魚が本当に楽しむのは、あれだ!」
恵子が言った。「あなたは魚ではない。魚が何を楽しむか、どうしてわかるのか?」
荘子が言った。「あなたは私ではない。それなら、私が魚の楽しみを知らないと、どうしてわかるのか?」
今や私たちは知っている。