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「森で木が倒れても、誰もそれを聞かなければ、音はするのだろうか?」
私はその問いに答えなかった。「する!」とも「しない!」とも立場を決めて擁護しなかった。その代わり、言葉を処理する人間のアルゴリズムを分解していき、ニューラルネットワークの図解まで描いた。最後には、問いが何一つ――問いがあるという感覚さえ――残らなかったことを願う。
哲学者の多く、とりわけアマチュア哲学者と古代の哲学者には、危険な本能が共通している。問いを与えると、それに答えようとするのだ。
たとえば、「私たちには自由意志があるのか?」という問いである。
哲学の危険な本能とは、賛成の議論を総動員し、反対の議論も総動員し、両者を比較検討し、権威ある哲学誌に発表して、ついに「そうだ、私たちには自由意志があるはずだ」または「いや、私たちに自由意志があるはずはない」と結論することである。
哲学者のなかには、哲学上の論争の大半は、実のところ言葉の意味をめぐる論争か、同じ言葉を場所によって違う意味で使うために生じた混乱である、という警告を思い出せるだけの賢さを持つ者もいる。
そこで彼らは、「自由意志」が何を意味するのかをきわめて厳密に定義し、それからもう一度「私たちには自由意志があるのか? イエスかノーか?」と問う。
さらに賢い哲学者なら、「自由意志」をめぐる混乱は、その概念自体に欠陥があることを示すのではないかと疑うかもしれない。そこで伝統的合理主義者の道をたどる。「自由意志」は本質的に自己矛盾している、あるいは検証可能な帰結がないため無意味だ、と論じるのである。そして、この壊滅的な指摘を権威ある哲学誌に発表する。
しかし、自分が混乱していると証明することで、混乱が少しでも減るとはかぎらない。問いが無意味だと証明しても、それに答える以上の助けにはならないかもしれない。
哲学者の本能は、最も擁護しやすい立場を見つけ、それを発表し、次へ進むことである。しかし「素朴な」見方、直観的な見方も、人間心理についての一つの事実である。太陽が冷えきるまで自由意志は不可能だと証明し続けても、認知科学上の説明されていない事実が残る。自由意志が存在しないのなら、それが存在すると考える人間の頭のなかでは何が起きているのか? これは修辞疑問ではない!
人々が自分には自由意志があると考えることは、人間心理についての事実である。より擁護しやすい哲学的立場を見つけても、その心理学的事実が変わったり、説明されたりするわけではない。哲学によってその概念を退けることはできても、概念を退けることと、その背後にある認知アルゴリズムを理解することは同じではない。
「森で木が倒れて、誰もそれを聞かなければ、音はするのか?」をめぐるお決まりの論争を見て、伝統的合理主義者らしいことをすることもできる。二人は予期される経験のいかなる点についても意見を異にしていないと指摘し、勝ち誇って議論は無意味だと宣言するのだ。この特定の事例では、たまたまそれが正しい。しかし、認知科学上の問いとして、そもそも議論する者たちはなぜその間違いを犯したのだろうか?
ヒューリスティックスとバイアス研究計画の核心となる考えは、私たちが犯す間違いのほうが、正しい答えよりも、背後にある認知アルゴリズムについてはるかに多くを明かすことが多い、というものである。そこで(昔の私は自問した)、どのような心の設計が、人のいない森で倒れる木について議論するという間違いに対応するのだろうか?
私たちが使う認知アルゴリズムこそが、世界がどのように感じられるかを決めている。そして、こうした認知アルゴリズムは現実と一対一に対応していないかもしれない。真のクォークは言うまでもなく、巨視的現実とさえ対応していないかもしれない。心のなかには、世界を斜めに横切って分類するものがあり得る。
たとえば、宙ぶらりんのユニットが、ニューラルネットワークの中心にあり、それが、現実世界のどこかに存在する実在の物や、実在の物が持つ実在の性質のいずれにも対応していないことがある。この宙ぶらりんのユニットはしばしば、計算上の近道として役に立つ。だから私たちはそのようなユニットを持っている。(比喩的に言えば、である。人間の神経生物学は、確実にこれよりはるかに複雑である。)
この宙ぶらりんのユニットは、未解決の問いがあるかのように感じさせる。答えられる問い合せにすべて答えた後でさえ、そうである。その問いによって予期される経験には何の違いも生じないと、誰かがどれほど証明しても、「だが、倒れる木は本当に音を立てるのか、立てないのか?」という疑問が残る。
しかし、自分の脳が問いをどう生み出すかを詳細に理解すれば――問いを感じることは、周辺ユニットがすべて既知の値に固定された後でも、自分が発火すべきかを知りたがっている、幻の中心ユニットに対応していると気づけば――あるいは、さらに望ましくは単純ベイズの技術的な仕組みを理解すれば、そのときには終わりである。混乱の感覚も、漠然とした不満も後には残らない。
答えの出ていない問いがまだ残っている、あるいは言いくるめられた、という感覚が少しでも残っているなら、それは問いを解消できていない徴候である。漠然とした不満も、叫び声と同じくらい強い警告として受け取るべきである。問いを本当に解消すれば、何も後には残らない。
自由意志を勝ち誇って大声で論駁し、自由意志が存在し得ないことを絶対に反論の余地なく証明するのは、実に満足感がある。それは盛大な歓声を味方チームへ送ることなのだ。そのため、認知科学上の問題として、直観的感覚の一つひとつがどう生じるのかについて、逐一、完全で満足のいく記述的説明を持っていないことに気づかないかもしれない。
この認知科学上の点を自分が知らないことを、認めたいとさえ思わないかもしれない。それは「自分のチーム」にとっての失点のように感じられるからだ。自由意志にまつわる愚かな信念を片端から打ち砕いている最中に、何かを説明せずに残したと認めるのは、敵方への譲歩に思えるだろう。
そこで、自由意志を信じる狩猟採集民は人生を前向きに捉えやすく、そのためほかの狩猟採集民より多くの子孫を残したのだ、というもっともらしい進化心理学的議論を考え出すかもしれない。これは完全にでたらめな説明の一例である。そう述べるとき、脳が自由意志の錯覚を生み出すのだと論じてはいるが、それをどのように生み出すかを説明してはいない。相手の動機を分解して、相手を退けようとしているにすぎない。しかも自分が語る物語のなかで、自由意志の錯覚は説明抜きの事実である。錯覚を分解し、その歯車や機構を調べてはいない。
人のいない森で倒れる木についてのお決まりの論争で、まず予期に何の違いも存在しないと証明し、さらに「しかし、議論が無意味だと言った者は譲歩したと見なされ、社会的地位を失ったのかもしれない。だから今では、言葉の意味について論争する本能を持っているのだ」と仮説を立てるところを想像してほしい。それは、混乱が存在することを論じること、あるいは混乱が存在する理由を説明することである。今度は、「意味を感じる」にあるニューラルネットワークの構造を見てほしい。こちらはどのように生じるかを説明することであり、混乱を、それ自体は混乱していない小さな部品へと分解している。違いがわかるだろうか?
認知アルゴリズムについて良い仮説を考え出すことは(半秒でも筋の通る仮説を考えることでさえ)、哲学的混乱をただ論駁するより、はるかに難しい。実際、それはまったく別の技芸である。このことを心に留めれば、こう言うのもさほど恥ずかしくなくなるはずだ。「あなたの言うことが真であり得ないのはわかっているし、証明もできる。だが、あなたの脳がどのように間違いを犯すのかを示すフローチャートは書けない。だから私はまだ終わっておらず、調査を続ける」
私がこれほど述べるのは、熟練した合理主義者が現実世界で発揮する有効性の少なくとも20パーセントは、早すぎるところで止まらないことから来るように、ときどき思えるからである。問い続ければ、やがて目的地にたどり着く。答えを見つけたと早々に決めれば、たどり着かない。
何より難しいのは、自分が混乱していると気づくことである――たとえほんのわずかな混乱としか感じられなくても、そして向かいに立つ誰かが、人間には自由意志があると言い張り、あなたをにやにや笑い、認知アルゴリズムが正確にどう働くのかをあなたが知らないことは、相手の立場の焼けつくような愚かさとは何の関係もなくても……。
しかし、認知アルゴリズムを十分に詳しく提示し、思考過程を一歩ずつたどり、直観的知覚の一つひとつがどう生じるかを記述できるなら――混乱を、それ自体は混乱していない小さな部品へと分解できるなら――そのときには終わりである。
だから、自分は終わったと信じていても、実際には単に勝ち誇って間違いを論駁したにすぎないことがある、と注意しておこう。
しかし、本当に終わったときには、終わったとわかる。問いを解消した感覚は紛れようがない――ひとたびそれを経験し、二度と欺かれまいと決意すれば、である。夢を見ている者は自分が夢を見ていると知らないが、目覚めたときには自分が目覚めているとわかる。
つまり、終わったときには終わったとわかるが、残念ながら、その逆は成り立たない。
そこで宿題である。「自由意志」をめぐる、実際に観察される議論を、その内側からの感覚として生み出す認知アルゴリズムとは、どのようなものだろうか?
課題は、人々に自由意志があるかないかを論じることではない。
課題は、自由意志が決定論と両立するかどうかを論じることではない。
課題は、その問いの立て方が悪いとか、その概念が自己矛盾しているとか、検証可能な帰結がないとか論じることではない。
自由意志を信じた人々がどのように繁殖したのかについて、進化論的説明を作るよう求められているのでもなければ、自由意志という概念がバイアスXと怪しいほど一致することを説明するよう求められているのでもない。そのようなものは、人々が「自由意志」を信じる理由を説明するだけの試みにすぎず、どのように信じるのかを説明するものではない。
宿題は、忌々しい哲学的議論全体を動かす直観を生み出すときの、人間の心の内部アルゴリズムについて、スタックトレースを書くことである。
これは昔、合理主義者を志していた私が挑んだ、最初の本物の難題の一つである。相対的に言えば、解きやすい難問の一つだった。これがあなたにも同じように役立つことを願う。