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「森で木が倒れ、誰もそれを聞かなかったら、音はするのか?」。この話題で、本当に議論が始まるのを見た覚えがある。バークリー流の主観主義などにはまるで近づかない、まったく素朴な議論だった。ただ、こういうものだ。
「音はするよ。ほかの木が倒れるときと同じように!」
「でも、誰も聞かない音なんて、どうしてあるんだ?」
標準的な合理主義者の見方では、最初の人は「音」を空気中の音響振動という意味で使い、二番目の人は「音」を脳内の聴覚体験という意味で使っているのだろう。「音響振動はあるか?」「聴覚体験はあるか?」と問えば、答えはすぐ明らかになる。だから、この議論は実際には「音」という言葉の定義をめぐるものだ、となる。
この標準的な分析は、基本的に正しいと思う。そこで、それを前提として、こう問おう。なぜ人は、こんな議論を始めるのか? その背後にはどんな心理があるのか?
ヒューリスティクスとバイアスの研究計画の中心的な発想の一つは、正解より間違いのほうが、認知について多くを明らかにすることがある、というものだ。誰もいない森で木が倒れると音がするかどうかをめぐって、激しい論争をすることは、従来、間違いとみなされてきた。
では、その誤りに対応する心の設計は、どんなものだろう?
「姿を隠した問い」では、ブレッグとルーブを分類する仕事を紹介した。熟練選別係のスーザンが、ベルトコンベアから出てくる物体を仕分けるのがあなたの仕事だ、と説明する。青い卵形、つまり「ブレッグ」は一つの箱へ、赤い立方体、つまり「ルーブ」はルーブの箱へ入れる。実は、ブレッグにはバナジウム鉱の小さな塊が、ルーブにはパラジウムの小さなかけらが入っていて、どちらも工業上役に立つからなのだ。
ただし、青い卵形の物体の約2%には、代わりにパラジウムが入っている。では、パラジウム入りの青い卵形のものを見つけたら、代わりに「ルーブ」と呼ぶべきだろうか? ルーブの箱に入れるのだから、「ルーブ」と呼んでもよいのでは?
だが、明かりを消すと、ほとんどすべてのブレッグは暗闇でかすかに光る。
そして、パラジウム入りの青い卵形の物体も、ほかの青い卵形の物体と同じ確率で、暗闇で光る。
だから、パラジウム入りの青い卵形の物体を見つけて「これはブレッグか?」と尋ねたなら、答えは、その答えを何に使うかによる。「どちらの箱に入れるのか?」と問うなら、ルーブであるかのように選ぶ。だが、「明かりを消したら光るか?」と問うなら、ブレッグであるかのように予測する。一方では「これはブレッグか?」が、「どちらの箱に入れるのか?」という隠れた問いの代わりになっている。他方では「これはブレッグか?」が、「暗闇で光るか?」という隠れた問いの代わりになっている。
いま、青い卵形でパラジウム入りの物体があるとしよう。そして、それに毛があり、柔軟で、不透明で、暗闇で光ることも、すでに観察済みだとする。
これですべての問いに答え、ここまでに出てきた観察可能な性質をすべて観察した。隠れた問いが代わりに表すものは、もう何も残っていない。
それなのに、なぜ人は、その物体が本当にブレッグかどうかを、さらに言い争いたくなるのだろう?
「神経のカテゴリー」から取った次の図は、ブレッグとルーブについての問いに答えるために使えそうな、二種類のニューラルネットワークを示している。
ネットワーク1
ネットワーク1には、振動的あるいはカオス的な挙動を示す可能性や、O(N 2)本の接続を要することなど、いくつもの欠点がある。だが、その構造には、ネットワーク2に対する一つの大きな利点がある。すべてのユニットが検証可能な問いに対応しているのだ。観察できるものをすべて観察し、すべての値を固定すれば、ネットワークの中に、未確定のユニットは残らない。
ネットワーク2
しかし、人間の脳の働きに多少なりとも似たものの候補としては、ネットワーク2のほうがはるかによい。速く、安く、大規模化しやすい。そして、中央に余分な宙ぶらりんのユニットがあり、周囲のノードを一つ残らず観察した後でも、その活性はまだ変わりうる。
つまり、物体が青いか赤いか、卵形か立方体か、毛があるか滑らかか、明るいか暗いか、バナジウム入りかパラジウム入りかを知った後でさえ、まだ答えていない問いが残っているように感じるのだ。でも、これは本当にブレッグなのか?
日々の経験では、音響振動と聴覚体験は普通、一緒に起きる。だが、誰もいない森で倒れる木は、このいつもの結びつきをほどく。そして、倒れる木が音響振動を生むが聴覚体験は生まないとわかった後でさえ、問いが残っているように感じる。音はしたのか?
冥王星がどこにあり、どこへ向かっているかは知っている。冥王星の形も質量も知っている。だが、それは惑星なのか?
ここで思い出してほしい。私がここに示したネットワーク2を見るとき、あなたはアルゴリズムを外側から見ている。人は「中央ユニットは発火すべきか、否か?」などと考えない。あなたが「視覚野の122億3432万242番のニューロンは発火すべきか、否か?」と考えないのと同じだ。
自分の脳を外側から思い描くには、意識的な努力が要る。それでも、実際の脳が見えるわけではなく、そこにあると自分が思うものを想像しているだけだ。できれば科学に基づいていてほしいが、いずれにせよ、内省から神経ネットワークの構造へ直接アクセスすることはできない。だから、古代ギリシャ人は計算論的神経科学を発明しなかったのだ。
ネットワーク2を見るとき、あなたは外側から見ている。だが、自分自身がそのアルゴリズムを動かす脳であるなら、その神経ネットワークの構造は、内側からはこう感じられる。物体のすべての特徴を知った後も、なお「でも、それはブレッグなのか、違うのか?」と疑問に思ってしまうのだ。
この隔たりを越えるのは大変で、私はここで人が立ち往生してしまうのを見てきた。私たちは本能的には、自分の直感を「直感」とは見ず、そのまま世界として見るからだ。緑のカップを見るとき、自分が視覚野で再構成された像を見ているとは考えない。実際にはそれを見ているのだが、ただ緑のカップが見える。「ああ、見て、このカップは緑だ」と思い、「視覚野にある、このカップの像は緑だ」とは思わない。
同じように、倒れる木が音を立てるか、冥王星は惑星かを言い争う人々は、自分たちが神経ネットワークの中で、ある分類を活性化すべきかどうか言い争っているとは見ていない。木が音を立てるか、立てないか、そのどちらかなのだと感じられる。
冥王星がどこにあり、どこへ向かっているかは知っている。形も質量も知っている。だが、それは惑星なのか? 確かに、これは定義争いだと言う人もいた。だがそれさえ、ネットワーク2的な見方だ。中央ユニットをどう配線すべきか論じているのだから。ネットワーク1のように作られた心なら、「『惑星』をどう定義するかによる」とは言わない。「冥王星の軌道と形と質量を知っているのだから、もう問うことは何もない」と言うだろう。というより、ネットワーク1のように作られた心なら、そう感じるのだ。問いはもう残っていないと感じるだろう。
自分の直感を疑えるようになるには、心の目で見ているものが、物事の本当の姿を直接知覚したものではなく、直感——ある認知アルゴリズムを内側から見たもの——なのだと気づかなければならない。
人が直感にしがみつくのは、自分の認知アルゴリズムを完全に信頼しているからというより、直感を自分の認知アルゴリズムが、たまたま内側からそう見える姿として捉えられないからではないかと思う。
だから、生来の認知アルゴリズムがどう道を誤るかについて何を言っても、結局は、彼らが直接知覚しているつもりの「物事の本当の姿」と比較され、明らかに間違いだとして捨てられてしまう。