非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

ベイズ的構造を探して

Searching for Bayes-Structure

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ノーム製ヘルムは、本来なら機能しないはずである。その構造自体が、魔術法則の本性に反しているように見える。実際、それは不可能な代物だ。ノームの頭脳が生み出すものの大半と同じく、余計な仕掛けばかりが大量についていて、中身はほとんどない。動くものにはたいてい、内部にマイナー・ヘルムが収められており、いつも隠され、無害で重要ではないものに見えるよう偽装されている。

知識が、心と環境との間の相互情報量を含意することを見てきた。そして、この相互情報量は負のエントロピーであることも、きわめて物理的な意味で見てきた。分子がどこにあり、どれほど速く動いているかわかれば、マクスウェルの悪魔やシラード・エンジンによって、熱を仕事に変えられる。

証拠なしに正しい信念を形成することは、コップの熱い水がひとりでに氷の塊と電気へ組み替わるのと同種の、ありそうにないことだと見てきた。合理性には、精神的な努力というだけでなく、熱力学的な意味での「仕事」が必要だ。完全に効率的でない心は、熱を放出しなければならない。この認知の仕事を支配するのは確率論であり、熱力学はその特殊な場合だ。(統計力学は統計学の特殊な場合である。)

壁のコンセントにも、ほかの動力源にもつながっていないように見える機械が、車輪を回し続けていたなら、隠れた電池や、近くにある無線送電装置を探すだろう。物理法則を破らずに、そこで行われている仕事を説明する何かを。

だから、ある心が正しい信念に到達しており、熱力学第二法則が破られていないとするなら、その心は、少なくとも漠然とでもベイズ的なことをしているはずだ。少なくとも一つ、多少なりともベイズ的な構造を持つ過程が、どこかにあるはずだ。そうでなければ、機能するはずがない。

初め、時刻T = 0において、心は環境中の部分系Sと相互情報量を持っていない。時刻T = 1には、心はSとの相互情報量を10ビット持っている。その間のどこかで、心は証拠に出会ったに違いない。ベイズ的な定義での証拠だ。ベイズ的証拠はすべて相互情報量であり、相互情報量はすべてベイズ的証拠であって、見方が違うだけなのだから。そして、その証拠の少なくとも一部を、どれほど非効率でも、少なくとも何度かはベイズに従う正しい方向で処理したに違いない。途中のどこかで、少しでもベイズと調和して動いたはずなのだ。そうでなければ、無から相互情報量を作り出し、熱力学第二法則を破ったことになる。

実際、認知過程のどんな部分でも、真実の発見に役立っているのなら、少なくともわずかにベイズ的な構造を持つはずだ。どこかでベイズと調和し、どれほど雑音が多くても、ベイズ的な流れに部分的には従っているはずだ。飾り立てる余計な仕掛けがどれだけあっても、周囲の過程との関係でしかそのベイズ的構造が見えなくても、そうである。そうでなければ、助けにさえなれない。

哲学者たちは、言葉の本性についてなんと熱心に考えてきたことか! 言葉の真の定義、定義の真の意味、意味の真の意味について、どれほどのインクを費やしてきたことか! 説明の中で、歯車や車輪のなんと入り組んだ仕組みを組み上げてきたことか! その間ずっと、実体は姿を変えたベイズ推論だったのだ!

実を言うと、読者の誰も飛び上がって「そうだ! そう、それだ! もちろんだ! 初めからずっとベイズだったんだ!」と言ってくれなかったのは、少し残念だった。

だが、表面上はベイズ的に見えないものが、巧みに変装したベイズだと明かされるのを見ても、次の場合はそこまでわくわくしないのかもしれない。(a)自分で謎を解くのではなく、他人が解くのを読む場合。ニュートンは、微積分を履修する学生の大半よりも楽しんだ。(b)隠れたベイズ的構造を探すことが、聖杯探しのような、巨大で難しく、至る所にある探求なのだとわかっていない場合。

認知のどの側面を扱うかによって探求は違うが、聖杯はいつも同じものだと判明する。ただし、それは正しい聖杯でなければならず、しかも欠けた部分のない完全な聖杯でなければならない。だから毎回、曖昧にごまかした聖杯めいた議論を人工的に作ろうとするのではなく、どんな形であれ、完全な答えを求めて探求に出なければならない。そうして初めて、最後にはいつも同じ聖杯が見つかるのだ。

以前、長いエッセイで一部の読者を置き去りにしているのではないか、と指摘された。「どこへ向かっているのかを明らかにしていない」からだと……。

……だが、あんな場所へ向かっているとき、行き先を人にただ伝えるのは、そう簡単ではない。

ある認知の形がベイズ的だと知っているだけでは、どうベイズ的なのかがわからないなら、大して役に立たない。確率の詳しい流れが見えなければ、持っているのは合言葉だけだ。もう少し好意的に言えば、答えがどんな形を取りそうかの手がかりではあるが、答えそのものでは断じてない。だから「ベイズ!」と言えば済むのではなく、「隠れたベイズ的構造を求める大いなる探求」がある。ベイズ的構造は、あらゆる変装の下に埋まり、車輪や歯車の茂みの奥に隠れ、余計な飾りや仕掛けに覆い隠されることがある。

聖なるベイズを求める探求がわかり始めるのは、こんなときだ。実に役立ちそうな認知現象XYZを知る。その本性について、哲学者たちが何世紀も議論し、いまだに議論している。AI研究者たちも、コンピューターにそれをさせようとしているが、やはり哲学について意見が一致しない――。

そして――おや、おかしいぞ!――この認知現象は、表面上はまるでベイズ的に見えなかったのに、明白ではない根底の構造にベイズ的な解釈がある。だが待て、まだベイズの言葉では説明できない有用な仕事が行われているぞ。いや待て、それもベイズ的だ。なんてことだ、表面上はやはりベイズ的に見えなかった、このまったく別の認知過程にもベイズ的構造がある。ちょっと待て、では、ベイズ的でない部分は、そもそも何か役に立つことをしているのか?

こういうことを何度か経験すると、なんとなくリズムがつかめてくる。ここで話しているのは、それなのだ。リズムだ。

このリズムを言葉で語ろうとするのは、建築について踊りで表そうとするようなものだ。

だから、どこへ向かっているのかをあらかじめ説明しようとすると、少し困ったことになった。「ベイズは宇宙の秘密だ」と言えば、ある人は「そうだ! ベイズは宇宙の秘密だ!」と言うかもしれないことを、私は経験から知っている。また別の人は鼻で笑い、「なんと視野が狭いのか。私の道具箱には、正則化付き線形回帰のような、その場しのぎでも驚くほど役立つほかの方法が、こんなにあるのに」と言うだろう。

「表面上はそこまでベイズ的に見えないが、結局ベイズ的だとわかるもの」の具体例が手元にあり、さらに合言葉と知識の違いを説明し、さらに道具と法則の違いを説明すれば、そのときには、自分で探求に出なくても理解できる範囲のリズムを、伝えられるかもしれないと思ったのだ。

もちろん、これがベイズ陰謀団の秘密のすべてではないが、今伝えられるのはここまでだ。そもそも完全な秘密を知るのはベイズ評議会だけであり、あなたに教えたら、あなたを雇わなければならなくなる。

認知過程の表面上の場当たり性を見通して、その下のベイズ的構造を捉えること。確率の流れを知覚し、この認知もベイズ的だと知るだけでなく、どうベイズ的なのかを知ること。いつもそうであり、いつもそうでなければならないのだから。あらゆる認知の根底にあるフォースを感じ取れること。これが、ベイズの眼だ。

「……そしてカシュファの女王は、蛇の眼でものを見る」

「彼女があれでものを見ているかは、知らない」と私は言った。「まだ手術から回復しているところだ。だが、面白い考えだな。もしあれで見えるなら、何を目にするのだろう?」

「明晰で冷たい、永遠の線だろう。あらゆる〈影〉の下にあるものを」

Roger Zelazny, Prince of Chaos (Thorndike Press, 2001). ↩︎