非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

アプリオリ

A Priori

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伝統的合理性は、社会的な規則として語られる。その違反は、不正行為と解釈できる。ほかの誰も破っていない規則を自分だけが破れば、最初に裏切ったことになり、とても悪い人間になる。ベイズ主義者にとって、脳は正確さを生み出すエンジンだ。合理性の法則に違反すれば、エンジンは動かない。ほかの誰かが規則を破っていようがいまいが、それは同じように成り立つ。

伝統的な哲学者が直面する、オッカムの剃刀の問題を考えよう。二つの仮説が同じ観測に同じくらいよく合うとき、なぜ単純なほうが真である可能性が高いと信じるのか。オッカムの剃刀は過去にうまく働いたので、未来にも働き続けそうだ、と論じることはできる。しかし、その議論自体がオッカムの剃刀による予測に頼っている。「オッカムの剃刀は2027年10月8日までは働き、それ以降は働かなくなる」という仮説は、より複雑だが、観測済みの証拠には同じくらいよく合う。

オッカムの剃刀は、事前確率の妥当な分布だと論じることもできる。しかし、「妥当な」分布とは何だろう。これまで観測したすべてのテストではオッカムの剃刀を働かせるが、未来には例外を生む、非常に複雑な事前分布を「妥当」と呼んでは、なぜいけないのか。

実際、オッカムの剃刀に訴える以外に、それを正当化する方法はないように見える。だから、まだオッカムの剃刀を受け入れていない相手を、この議論で判定者として納得させるのは難しそうだ。(強調した言葉には、どんな共通点があるだろう?)

日々、論文を書き、他人の論文を批判し、自分の論文への批判に答えている哲学者なら、オッカムの剃刀を見て肩をすくめるかもしれない。正当化も、議論も、説得も、ここで終わりだ。論文の書き合いには休戦を宣言することにする。議論で立証できない自分の信念について、仲間の哲学者たちが正当化を求めないなら、こちらも彼らの信念に正当化を求めない。そして、その条約の象徴、白旗として、「アプリオリな真理」という言葉を使う。

だが、認知科学、進化生物学、人工知能のあるこの時代、ベイズ主義者にとって、「アプリオリ」と言っても、脳というエンジンがなぜ動くかは説明されない。脳に、正確な信念を生むよう機能する、驚異的な「アプリオリな真理工場」があるなら、喉の渇いた狩猟採集民は、なぜその工場を使って飲み水を見つけられないのだろう。物を見ずに正確な信念を作れるなら、そもそもなぜ目が進化したのだろう。

ジェームズ・R・ニューマンは言った。「リンゴ一つに一つを足すと、必ず二つになるという事実は、算数を教える助けにはなるが、1+1=2という命題の真理性には関係しない」。インターネット哲学百科事典は、「アプリオリ」な命題を、経験とは独立に知ることのできる命題と定義している。ウィキペディアはヒュームを引用している。観念の関係は、「宇宙のどこに何が存在するかに依存せず、思考を働かせるだけで発見できる」。リンゴを見なくても、ただ考えるだけで、1+1=2だとわかるのだ。

だが神経科学のあるこの時代には、思考も宇宙に存在し、脳の働きと同一だと認識するべきだろう。物質としての脳は、宇宙の中に実在し、クォークから成る。そこには、頭蓋骨の内と外に境界を引かない、一つの統一された数理的な物理法則がある。

考えることで1+1を足して2を得るとき、その思考自体は、瞬く神経活動のパターンとして実現されている。原理的には、まったく同じ物質的な出来事が他人の脳内で起きるのを、経験として観測できる。計算神経生物学や脳とコンピュータをつなぐ技術には進歩が必要だが、原理的には可能だ。他人のエンジンが物質的に動き、物質的な因果の連鎖を通じて、「純粋思考」で1+1=2を計算するのを見られる。他人の脳でこのパターンを観察することは、自分の脳が同じことをするのを観察することと、知る方法として何が違うのだろう。「純粋思考」が「いかなる経験や観察からも独立に」1+1=2だと告げるとき、あなたは実質的には、自分自身の脳を証拠として観察しているのだ。

これが直観に反するなら、心や脳をエンジンとして見てほしい。1の神経パターンと、もう一つの1の神経パターンをぶつけ、2の神経パターンを得るエンジンだ。このエンジンがまともに動くなら、似た脳のエンジンが似た衝突を起こすのを目と網膜で観察し、生じたパターンを自分に写し込んでも、同じ出力になるはずだ。つまり、「純粋思考」から得られるどんなアプリオリな知識でも、外にある脳のエンジンが、同じ純粋な神経活動を瞬かせるのを見た場合と、まったく同じことを学んでいる。エンジンは同等で、最終的な出力も同等で、信念と対象との結びつきも同じなのだ。

「アプリオリに」知ることができて、外にある脳の神経伝達物質の化学的な放出を観察しても、同じ正当性で知ることができないものなどない。読者よ、自分は何だと思っているのだろうか。

だからこそ、まず頭の中で想像することで、リンゴ一つに一つを足した結果を予測できる。あるいは計算機に「3×4」と入力して、リンゴが一列に三つずつ、四列あるところを想像した結果を予測できる。あなたもリンゴも、境界のない一つの物理過程の中に存在し、その一部が別の一部を映すことがあるのだ。

哲学者が「アプリオリな信念」と呼ぶような神経活動の閃きは、恣意的なのだろうか。AIのアルゴリズムの多くは、解の空間を単純な解へ偏らせる「正則化」によって、よりよく働く。しかし、正則化したアルゴリズム自体は、より複雑だ。正則化していないものより、コードが一行、あるいは千行、多く含まれている。人間の脳は単純さに偏っており、それによって、より効率よく考える。この段階で「無視」のボタンを押すと、何の理由もなく存在し、何の理由もなく動く、複雑な脳が残る。だから、「アプリオリ」な信念は恣意的だなどと言わないでほしい。少なくとも、それは乱数を振って生成されたものではない。(そもそも、「恣意的」という形容詞は何を意味するのだろう?)

ほかの哲学者も自分の命題の正当化に苦労していると指摘しても、ある命題を「アプリオリ」と呼ぶことの言い訳にはならない。哲学者が何かの説明に失敗したという事実は、冷蔵庫に電力を供給できないし、正確な信念を生む魔法の工場にもなれない。なぜエンジンが動くか理解するまでは、休戦も白旗もない。

正当化や議論のことを頭から追い出せば、オッカムの剃刀が実際に働く理由は明白に思える。私たちは、短い説明を見つけられる、単純で低エントロピーの宇宙に住んでいるのだ。「だが」とあなたは叫ぶ。「宇宙そのものが秩序立っているのは、なぜなのか?」それは私にもわからない。だが、それが次に説明するべき謎だと考えている。これは、「オッカムの剃刀をまだ受け入れていない架空の論者に、どう論証すればよいか?」とは別の問いだ。

オッカムの剃刀を受け入れていない架空の論者には、何一つ論証できないのかもしれない。石に何かを論証できないのと同じだ。議論を受け入れる存在であるためには、心にはある程度、動的な構造が必要だ。前件肯定を実装していない心なら、「A」と「A → B」を一日中受け入れても、「B」を導くことは一度もない。前件肯定を受け入れていない心に、どう前件肯定を正当化するのか。どう石を説得して心に変えるのか。

脳は、脳でない物質から自然選択によって進化した。完全に空っぽな、理想の哲学の学生と議論して、存在を正当化されたわけではない。だからといって、私たちの判断が無意味になるわけではない。脳というエンジンは、論証によって存在するようになったのではなく、人間の手や、積み重なる確率的な選択圧によって、ただ作られただけでも、正しく働き、正確な信念を生み出せる。しかし、この答えに納得するには、合理性を議論ではなく、エンジンとして見る必要がある。