非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

還元と指示

Reductive Reference

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私の定式化する還元主義の主張は、人間の心は効率のために、多水準の地図を使うというものだ。その地図では、「原子」と「クォーク」、「手」と「指」、「熱」と「運動エネルギー」などを別々に考える。一方、現実自体は単一水準である。つまり、クォークに加えて、原子が別個の、追加の、因果的な作用を持つ実体として存在するようには見えない。

サディ・カルノーは熱力学第二法則の前身を、熱素説を使って定式化した。その理論では、熱は、熱いものから冷たいものへ流れ、火によって生じ、気体を膨張させる流体にすぎなかった。熱の効果は、還元が行われるずっと前から、運動の科学とは別に研究されていた。蒸気機関を設計しようとするなら、「熱」と呼ぶ微小な振動や衝突すべての効果は、クォークの完全な量子力学より、はるかに簡単な記述へまとめられる。人間は、目標に関係する量に対する重要な効果だけを考えて、効率よく計算する。

だが、現実自体は、クォークの完全な量子力学を使っているようだ。以前会った人は、砲弾のような低速の問題を一般相対性理論で計算すると、間違った答えが出ると思っていた。答えが遅いだけでなく、実験に合わない答えが出るというのだ。低速では、砲弾は一般相対性理論ではなくニュートン力学に支配されるからだという。物理は、まさにそのようには働いていない。現実は、小数第14位にしか違いが出なくても、一般相対性理論をひたすら計算し続けているようだ。人間には計算能力の大変な浪費と思えるだろうが、物理は力ずくでやる。物理が計算を簡略化するのを見つけた人は、一度もいない。あるいは見つけた人がいても、後からマトリックスの支配者が記憶を消したのだろう。

すると私たちの地図は、領土とは大きく違う。地図は多水準で、領土は単一水準だ。表現が、それの指すものと、これほどかけ離れているのなら、現実にはクォークしかないのに、「私は靴下を履いている」という信念は、どんな意味で真と呼べるのだろう?

「真」の意味を忘れてしまったかもしれないので、アルフレト・タルスキによる古典的な定義を挙げよう。

「雪は白い」という言明が真であるのは、雪が白い場合、かつその場合に限る。

「私は『雪は白い』と信じている」と「『雪は白い』は真だ」の違いを忘れてしまったなら、「質的な混乱」を参照してほしい。真偽は、自分の頭の中を見るだけでは評価できない。たとえば「明けの明星=宵の明星」かどうか知りたければ、望遠鏡が必要だ。信念そのものを見るだけでは足りない。

「でも、自分の信念が真だと、どうしてわかるのか?」と叫ぶポストモダニストが見落とすのは、この点だ。実験するとき、あなたは実際に、自分の頭の外へ出ている。推論の対象についての信念だけでなく、その対象自体が結果を因果的に決める、複雑な相互作用に関わっている。私は以前、「現実」を次のように定義した。

知っている証拠すべてに強く支えられた、単純な仮説を持っていても、なお驚かされることがある。だから、自分の予測を決めるものたちと、実験結果を決めるものとには、別の名前が必要だ。前者を「信念」、後者を「現実」と呼ぶ。

実験の解釈は、それでも事前の信念に依存する。「事前の信念はどこから来るか」は、今は話さない。この記事の主題ではないからだ。言いたいのは、真理は、信念と現実の理想的な比較を指すということだ。惑星と、惑星についての信念は別だと理解しているからこそ、「明けの明星と宵の明星は同じ惑星だ」という信念が真かどうかを試す実験を設計できる。その実験には、内省だけでなく望遠鏡が関わる。「真理」とは、内側の信念と外側の事実を比べることだと理解しているからだ。そこで、観察される振る舞いが惑星という外側の事実に依存すると信じる器具、望遠鏡を使う。

望遠鏡が「明けの明星=宵の明星」の「真偽」を評価する助けになると信じることは、望遠鏡と惑星の相互作用についての事前の信念に依存する。繰り返すが、この記事ではそれを扱わない。ただ、好きなレイモンド・スマリヤンの言葉を引いておこう。「洗練された読者が、この言明は単なる同語反復だと異議を唱えるなら、せめて矛盾していない点は認めていただきたい」。同じように、私は望遠鏡を使うことを循環論法ではなく、内省しても保たれる整合性と見る。真理へ至る体系的な方法には、その方法がどう働くかについて、合理的な説明があるはずだからだ。

今、問うているのは、現実にはクォークしかないとき、「雪は白い」が真であるとは何を意味するか、ということだ。

「雪」と「白さ」についての信念を構成する、ある神経接続のパターンがある。私たちはそう信じるが、実際の接続を知ってはいないし、具体的に思い描けもしない。その接続自体も、さらに知られていないクォークのパターンに実装されている。一方、外の世界には、十分に温度が低いために、繰り返し模様を敷き詰めるように並んだ水分子がある。絡み合ったニューロンとは似ても似つかない。常に変動する、一方のクォークのパターンを他方と比べたとき、「雪は白い」という信念は、どんな意味で真なのか?

当然、私にもほかの誰にも、理想のクォーク比較関数を提示することはできない。神経に実装された信念と周囲の脳のクォーク水準の記述、雪片と周囲の光学法則のクォーク水準の記述を受け取り、「雪は白い」について「真」か「偽」を出力する関数だ。そもそも、根本の水準が本当に粒子の場についてのものだと、誰が言えるのか?

他方、目にすることもできないクォークについての巨大で手に負えない仕様書として書かれていないからといって、信念をすべて捨てるのは……あまり賢明には思えない。目標を最適化する最善の方法ではない。

「雪」や「白い」のような言葉は、一種の約束手形と見なせると思う。どのクォークの物理的配置が「雪」に当たるのか、その厳密な仕様がわかっているわけではない。それでも、雪と呼ぶものと、雪と呼ばないものはある。プラスチックの雪のように、いくつか間違えていたとしても、理想の全知の科学的解釈者なら、中心の密なクラスターを見つけ、もっと単純な定義になるよう、境界を引き直すだろう。

一層からなる宇宙で、その最下層が未知、不確か、あるいは話題にするにはあまりに巨大な場合、多層の心にある概念は、一種の約束手形だと言える。それが外の何に対応するかはわからない。だが、当てはまる例と当てはまらない例を、予測に役立つ仕方で見分けられるように思える。だから私たちは、クォークに何らかの違い、根本水準の配置に何らかの違いがあり、それが感覚に入ってきて、最後に「雪」か「雪ではない」かと言わせる差を説明するのだ、と考える。おそらく、まったく一般的な意味でそう考えるのだ。

この白いものが見え、何度見ても同じなので、環境に安定した隠れた原因があると仮定し、それに「雪」という名をつける。すると「雪」は、自分の経験を生む見えない原因の周りに引けると信じる、単純な境界を指す約束手形になる。

ヒラリー・パトナムの「双子地球」の思考実験と、それに続く哲学上の議論は、この問題を浮き彫りにする。そこでは、水はH2Oではなく、XYZと表記される何か奇妙な別の物質だが、それ以外は水によく似た振る舞いをする。「雪」には、私たちの知っている論理的定義はない。むしろ、論理的な定義を指す、経験によって定まったポインターのようなものだ。雪は氷の結晶であり、低温で敷き詰められた水分子だと信じていても、これは変わらない。水分子はクォークでできている。クォークがさらに何かでできているとわかったら? そのとき、雪片は何なのか? わからない。だが、それでも雪片であって、消火栓ではない。

そしてもちろん、今書いたこれらの段落自体も、クォークの水準よりはるか上にある。「白いものを感知し、視覚的に分類して、『雪』か『雪ではない』かと考える」。これも、クォークよりはるかに上の水準の話だ。

だから私のメタ信念も、約束手形である。脳を構成するクォークなり何なりの、どの配置が「『雪は白い』と信じること」に対応するかについて、理想の全知の科学的解釈者なら知っているかもしれない事柄への、約束手形なのだ。

だが、私たちが現実を把握する仕方は、全体がこの種の約束手形からできている。だから、循環的と呼ぶより、自己整合的と呼びたい。

これは少し心もとない。個々の対象についての信念でも、それを振り返る思考でも、巨大で未知の根本的な現実からはるか上の、不安定な認識上の足場を保ち、落ちないことを願っているのだから。

だが考え直してみると、ほかにどうありうるのか、思いつきにくい。

結局、「現実には、クォークに加えて、手が根本的な、追加の、別個の因果的実体として含まれているわけではない」という言明は、「手は存在しない」「私には手がない」という言明とは違う。根本的な手はない。手は指、手のひら、親指でできており、それらは筋肉や骨からできている。その先をずっと下れば、今わかっているかぎり根本的な因果的実体である、素粒子の場に行き着く。

これは、「『手』はない」と言うこととは違う。「『手』という言葉は、対応する経験的クラスターがないので、決済されることのない約束手形だ」と言うこととも違う。「想定される性質が論理的に両立不可能なので、『手』という手形は決済されない」と言うこととも違う。「『人間には手がある』は意味の通る状態を指しているが、現実はその状態ではない」と言うこととも違う。

ただ、私たちが「手」を見るところには、現実の中に存在するパターンがあり、それらには共通点があるが、根本的ではない、ということだ。

もし私に本当に手がなかったら――現実が突然、「エリエゼルには手がない」と私たちが表現する状態に移ったら――そのすぐ後には、「切断された手首から血が噴き出し、エリエゼルが悲鳴を上げる」と表現する状態になるだろう。

そしてこれは、上の段落がクォークの位置を一つも指定していなくても、真だ。

一つ前の文も同じように、メタの水準で真である。

地図は多水準で、領土は単一水準だ。これは、上位の水準が「存在しない」という意味ではない。ガレージでドラゴンを探して何も見つからないとか、砂漠で蜃気楼を見て飲める水を期待したのに、何も飲めない、といったことではない。地図の上位の水準は、指すもののない偽りではない。物理の単一水準の中に、指すものがある。飛行機の翼が存在しないわけではない。それなら飛行機は空から落ちるだろう。「飛行機の翼」は、技術者の多水準モデルの中に明示的に存在する。そして実際の飛行機の量子物理の中には、暗黙に存在する。暗黙の存在は、不存在とは違う。この暗黙性の厳密な記述は、私たちにはわかっていない。地図に明示的には表されていないのだ。だが、それでも地図は役立つし、真であることもできる。

とはいえ、脳にある概念と信念の一つひとつが、脳の働きや正確な信念を作れる理由についてのこうしたメタ概念まで含め、現実より何桁も何桁も上にある、と考えるのは、少し心もとない……。