非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

2 + 2 = 3だと私を納得させる方法

How to Convince Me That 2 + 2 = 3

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「証拠とは何か?」で、私はこう書いた。

だから合理主義者は、一見逆説的な主張をとても重視する。原理的には別のことを信じるよう説得されうる信念だけが、本当に価値のある信念なのだ。どんな光が入っても網膜が同じ状態になるなら、あなたは目が見えないことになる……。「盲信」という言葉はここから来る。何を信じるかが何を見るかに左右されないなら、眼球をくり抜かれたのと同じくらい、あなたは見えなくなっている。

ジハン・バランはこう答えた。

2 + 2 = 4が偽になるような状況は想像できません。おそらくそのために、私の2 + 2 = 4という信念は無条件なのです。

たしかに私にも、2 + 2 = 4を偽にする「状況」は想像できない。(定義を変えることはできるが、それは「状況」ではないし、そうなればもはや2、4、=、+についての話ではなくなる。)だが、それで私の信念が無条件になるわけではない。2 + 2 = 3だと私を納得させる状況なら、いとも簡単に想像できる。

ある朝起きて、耳栓を二つ取り出し、ナイトテーブルの上の別の二つの耳栓の隣に置いたとしよう。すると、耳栓が現れたり消えたりしていないのに、耳栓が三つになっていることに気づく。2 + 2は4になるはずだという、記憶に残っていることとは食い違う。さらに、その過程を頭の中で思い描いてみると、xxとxxを合わせてxxxxにするには、余分なxがどこからともなく現れなければならないように思える。それは、頭の中で思い描くほかの計算とも矛盾する。xxxからxxを引くとxxが残るのに、xxxxからxxを引くとxxxが残るからだ。これは3 − 2 = 1という記憶に反するが、物理的にも頭の中でもxxx − xx = xxだと確かめられるなら、記憶のほうがばかげていることになる。

私は電卓やGoogleでも確かめるだろうし、たぶん手元の『1984年』も調べるだろう。そこではウィンストンが「自由とは、二足す二は三だと言える自由だ」と書いている。もちろん、どれを調べても、世界中が、記憶ではなく現在の私の頭の中のイメージに一致して、2 + 2 = 3としていることがわかるだろう。

どうして私は、2 + 2 = 4だなどという途方もない思い違いをしていたのか? 二つの説明が浮かぶだろう。一つは、神経系の不具合が、おそらくくしゃみか何かをきっかけに起き、記憶に保存されている足し算の答えがすべて1ずつ増えてしまったというもの。もう一つは、誰かが催眠術で、あるいは私がコンピューター・シミュレーションであることを利用して、私をもてあそんでいるというものだ。後者の場合にも、2 + 2が実際に4であるより、計算の記憶をいじられた可能性のほうが高いと思うだろう。どちらももっともらしく聞こえる説明だが、それによって自分がひどく、ひどく、ひどく混乱していると気づくことを妨げられはしない。

言い換えれば、2 + 2 = 3だと私を納得させるのは、今、2 + 2 = 4だと私を納得させているのと、まったく同じ種類の証拠だ。物理的な観察、頭の中での視覚化、社会的な合意という、証拠の十字砲火である。

私にも、2 + 2 = 4だとまったく知らなかった時期がある。この新しい信念を、ランダムな過程で手に入れたわけではない。もしそうなら、脳が「2 + 2 = 7」ではなく「2 + 2 = 4」を記憶したことに、特別な理由はないはずだ。耳栓を二つ、別の二つの耳栓の隣に並べると起きることと、驚くほどよく似た答えを私の脳が記憶している。この事実は、心と現実が奇妙に映し合うこの関係を、どんな結びつきが生み出しているのかという説明を求めている。

事実についての信念には、本当のところ二つの可能性しかない。心と現実を結びつける過程を通じてその信念に至ったか、そうでないかだ。そうでなければ、その信念が正しいとしたら偶然でしかない。ほんのわずかでも内部に複雑さをもつ信念――シミュレートするのに10ビットを超えるコンピュータープログラムを必要とするもの――では、可能性の空間は十分大きく、偶然に当たる可能性は消えてしまう。

無条件の事実と、無条件の信念は同じものではない。現実と結びついた証拠によって、ある事実が無条件だと納得したからといって、そのような証拠を必要とせず、初めからずっとその事実を信じていたことにはならない。

私は2 + 2 = 4だと信じている。そして、2 + 2 = 3だと私を納得させる状況も、いとも簡単に思い描ける。それは、現在2 + 2 = 4だと私を納得させているのと同じ種類の状況だ。だから私は、自分が盲信の犠牲になっているのではないかと恐れることはない。

読者の中に、ベイズの定理を知っているキリスト教徒がいるなら(数字嫌いの方はご遠慮願いたい)、どのような状況ならイスラム教が真実だと納得するのか、お尋ねしてもよいだろうか? おそらくそれは、現在のキリスト教への信仰を生み出した原因と同じ種類の状況だろう。つまり、あなたをイスラム教徒の女性の子宮から泣き叫びながら押し出し、イスラム教を無条件に信じるのはよいことだと絶えず言い聞かせるイスラム教徒の両親に育てさせることだ。それとも、それ以上の何かがあるのだろうか? あるなら、どのような状況があなたにイスラム教を、あるいは少なくともキリスト教が真ではないことを、納得させるだろうか?