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私はときどき、科学の方法とは、科学者でさえ無視できないほど途方もない証拠の山を積み上げることであり、そこに科学者の特徴がある、と言う。(科学者でない人は、それでも無視する。)
マックス・プランクは、さらに悲観的だった。1
新しい科学的真理が勝利するのは、反対者を説得し、真理に目覚めさせるからではない。むしろ、反対者がやがて死に、それに親しんだ新しい世代が育つからである。
この考えには、私はとても愉快な気分になる。真と偽を見分ける科学の力は、結局のところ、大学院生のよいセンスにかかっている、ということになるからだ。
物理学界で多世界の受容が少しずつ増えていることは、認識上の正当化と、その中にいれば安心できる十分な大きさの学者集団との、何らかの組み合わせがなければ新しい考えを受け入れない物理学者がいることを示唆する。受け入れる物理学者が増えるほど集団は大きくなり、各人の転向の閾値を超える人も増える。認識上の正当化は、本質的には同じままである。
それでも科学は、いずれそこへたどり着く。それで、科学のラチェットが前に進み、技術文明を築くには十分なのだ。
科学者も、根拠のない偏見や、根拠を失った直感、むき出しの群集行動など、人間の欠点の数々に動かされる。科学者が認識上正当化できない理由で信念を変えるたび、その雑音を打ち消すには、追加の証拠や新しい議論が必要になる。
「波動関数の収縮」には実験的な正当化がないが、世界は一つだという、すでに根拠を失った直感に訴える。すると、そもそも無視できないほどの確率を割り当てるべきでなかった考えが、学界でゆっくり崩れ始めるまでに、たとえば収縮は特殊相対性理論に反する、といった追加の議論が必要になるかもしれない。
ベイズ的な観点から見ると、人間の学術科学全体は、きわめて非効率な証拠の処理装置だ。正当化できない議論が信念を動かすたび、それを戻すため、正当化できる議論が余分に必要になる。科学という社会的過程は、認知上の雑音を克服するため、追加の証拠に頼っている。
もっと好意的に言えば、科学者がベイズ的AIであり、明晰に推論できると自分を信頼できたら取るであろう理想的な立場と比べ、科学者は、理論的に徹底しきれていない立場を取る、ということだ。
だが、あまり好意的になりすぎてもいけない。ここでいう雑音は、すべて悪意のない間違いというわけではない。多くの分野で、決着しているべき時から何十年も議論が続く。それは、双方の科学者が自分を信用するのを避け、追加の証拠を探すべきだと合意しているからではない。どちらから証拠の風が吹いているか明らかになってからも、一方が学界の権力の座に居座り、ますますばかげた反論を出し続け、さらに多くの証拠を要求し続けるからだ。(ここで念頭にあるのは、多世界ではなく、進化心理学の誕生をめぐる論争である。)
個々の人間や集団が、人間の学術科学全体より効率よく証拠を処理し、より速く正しい結論へ到達することは可能だろうか。
「考えは実験で試される。それが科学の核心だ」。これは真に違いない。ゾンビ・ファインマンが信用できないなら、いったい誰を信用できるのか?
だが、その考えはどこから来るのだろう。
「科学者からだ。ほかに質問は?」と答えたくなるかもしれない。科学では、仮説がどこから来たかは気にしないことになっている。実験に合格するか不合格になるかだけが問題だ。
いいだろう。だが、新しい考えをすべて取り除けば、科学の過程全体は、試すべき別の仮説がなくなり、働かなくなる。だから、新しい考えを生み出すことは、省ける部分ではない。
ここで、ベイズの眼鏡をかけ直そう。「アインシュタインの傲慢」で述べたように、二択でない問いがある。答えが「はい」か「いいえ」ではなく、たとえば方程式の空間のような、もっと大きな構造の空間から選ばれる問いだ。その場合、仮説を確証するより、その仮説を自分の注意に上るところまで引き上げるほうに、はるかに多くのベイズ的証拠が必要となる。
32ビット以下で指定できるすべての方程式の空間を扱うなら、40億の方程式の空間を扱うことになる。そのうち一つの仮説を確率10%まで引き上げるには、そこからさらに10%から90%へ引き上げるより、はるかに多くのベイズ的証拠が要る。
考えの空間が大きいとき、試す価値のある考えを思いつくには、古い仮説より新しい仮説を支持するp < 0.0001の実験結果を単に得るより、はるかに多くの仕事が要る。ここでの「仕事」は、ベイズ的・熱力学的な意味での仕事だ。
これが一目で明らかに思えないなら、ここで立ち止まり、「アインシュタインの傲慢」を読み直してほしい。
科学の過程は常に、科学そのものでは詳しく規定しない何らかの過程を通じて、科学者が試す仮説を思いつくことに頼ってきた。仮説を作る、完全にでたらめな方法を思いついたとする。たとえば、ロボットで操作するウィジャ盤に、円周率の数字を送り込むのだ。そして、そこから出た提案が、実験で次々と裏づけられたとしよう。純粋で理想的な科学の本質は、少しも動じないだろう。純粋で理想的なベイズの本質は、炎上して死ぬだろう。
(科学と比べると、ベイズは可能な結果のうち、より多くによって反証される。)
これは、どの考えを試すか決める過程が、科学にとって重要でないという意味ではない。科学は、その過程を規定しないという意味だ。
実際には、ロボット制御のウィジャ盤は役に立たない。実際には、答えの空間があまりに大きいため、モデルを無作為に選んで試していたら、よい予測をするモデルに行き当たるまで、とてつもない年月がかかる科学的な問いもある。サルにシェイクスピアをタイプさせるようなものだ。
科学の最前線——無知と知識の境界、科学が前進する場所——では、その過程は、少なくとも一部の個々の科学者や研究グループが、科学としてまだ確認されていないものを見て取ることに頼っている。そうして彼らは、試す前から、どの仮説を試せばよいかを知るのである。
ベイズの眼鏡を外せば、「知っている必要はない。ただ推測すればよい」と言える。だが、かけ直せば、少なくとも答えの空間が大きい場合、10%の確率で当たる「推測」でも、80%の確率で当たる「推測」とほぼ同じだけの認識上の仕事が、舞台裏ですでにうまく行われていなければならない、とわかる。
科学者は、実験前には、自分がこの認識上の仕事をうまく果たしたと知らないかもしれない。それでも、実際にはうまく果たしていなければならないのだ! さもなければ、正しい仮説を思いつくことさえない。少なくとも、答えの空間が大きい場合には。
そこで科学者は、新しい予測を立て、実験し、結果を発表する。そして今や、科学もそれを知ることになる。それは、誰もが自分で確かめられる、人類の公開された知識の一部になったのだ。
そのあいだには、科学という公的な社会的過程がまだ確認していないことを、科学者が合理的に知っていた期間がある。その期間は短いかもしれないが、取るに足りないものではない。そこに、科学の最前線、前進する境界があるのだから。
これはすべて、定型的な科学よりも、非定型的な科学にいっそうよく当てはまる。答えが「はい」「いいえ」でも、少数の明白な選択肢から選ぶものでもない、大きな答えの空間についての話だからだ。考えを試すことを教えるほうが、試すべきよい考えをもつことを教えるより、はるかに簡単なのである。
Max Planck, Scientific Autobiography and Other Papers (New York: Philosophical Library, 1949). ↩︎