Yudkowsky Sequences 日本語訳
非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

アインシュタインの傲慢

Einstein’s Arrogance

1919年、サー・アーサー・エディントンはブラジルとプリンシペ島への観測隊を率いた。日食を観測し、それによってアインシュタインの新しい一般相対性理論が示す実験的予測を検証するためであった。ある記者がアインシュタインに、もしエディントンの観測が理論と一致しなければどうするのかと尋ねた。アインシュタインは有名な言葉でこう答えた。「それなら、善良なる神を気の毒に思うだろう。理論は正しいのだから」

これは、何にもまして実験こそが主権者であるという伝統的合理性の決まり文句に逆らう、かなり無謀な発言に見える。アインシュタインは、科学者ならそうしなければならないように、首を垂れて自然の答えに服することを拒むほどの傲慢さに取りつかれているように見える。実験で検証する前に、理論が正しいと誰が知り得るのだろうか。

もちろん、結局はアインシュタインが正しかった。私は、人が正しいときには批判しないよう努めている。本当に批判に値するなら、その人が間違う機会を長く待つ必要はないだろう。

そしてアインシュタインは、言葉の響きほど無謀ではなかったのかもしれない……

1億個の可能な仮説から正しい候補に50%を超える確率を割り当てるには、少なくとも27ビットの証拠(おおよそ)が必要である。これほど強い検査なしに正しい候補を見つけられるとは期待できない。それより弱い検査では、すべての検査を通過する候補が複数残るからだ。偽陽性の確率が100万分の1にすぎない検査(約20ビット)を適用しても、候補は100個残る。広大な可能性の空間の中で正解をただ見つけるだけでも、大量の証拠が必要なのである。

伝統的合理性は正当化を強調する。「私にXを納得させたいなら、Yだけの証拠を示さなければならない」。私自身も、「この命題を99%を超える確率で信じることを正当化するには、34ビットの証拠が必要である」といったことを言うたび、この言い回しに陥りがちである。あるいは、「自分の仮説に50%を超える確率を割り当てるには、27ビットの証拠が必要だ」とも言う。伝統的な言い方が示唆するのは、まず直感や、個人的な推論の筋道から思いついた仮説を持ち、その後でそれを確証するための「証拠」を集めなければならないという構図である――科学界を納得させるため、あるいは自分がその直感を信じていると言うことを正当化するために。

しかしベイズ的な観点から見れば、理論空間の中で仮説を特定するだけでも、おおよそその仮説の複雑さに相当する量の証拠が必要である。これは誰かに何かを正当化するという問題ではない。選択肢が1億個あるなら、正しい答えだけに注意を絞るためだけでも、少なくとも27ビットの証拠が必要なのだ。

これは、自分の推測を「予感」や「直観」と呼んでも変わらない。予感することや直観することは、現実の脳内で生じる現実の過程である。脳が処理できる、真に絡み合った有効なベイズ的証拠を少なくとも10ビット持っていなければ、意識的であれ、無意識的であれ、その他どのような形であれ、脳は10ビットの正しい仮説一つを選び出して注意を向けることができない。無意識の過程も、意識の過程と同様に、わずか19ビットの絡み合いを使って100万個の標的から一つを見つけ出すことはできない。予感は、それを抱く本人には謎めいていることがあるが、物理法則を破ることはできない。

話の行き先はもうわかるだろう。仮説を最初に定式化した時点で――方程式が初めて頭に浮かんだまさにそのとき――アインシュタインは、一般相対性理論の複雑な方程式だけを注意の対象として選び出すのに十分な観測証拠を、すでに手にしていたはずである。そうでなければ、その方程式を正しく得られるはずがなかった。

では、アインシュタインが一般相対性理論を注意に値する水準まで引き上げるのにちょうど十分な観測証拠を持ちながら、それに55%の確率を割り当てることしか正当化できなかった可能性は、どれほどあるだろうか。一般相対性理論が29.3ビットの仮説だとしよう。物理学の文献を読むうちに、アインシュタインがちょうど29.5ビットの証拠に出くわす可能性はどれほどあるだろうか。

高くはない! そもそも一般相対性理論の正しい方程式を選び出すのに十分な観測証拠をアインシュタインが持っていたなら、一般相対性理論が真であると確信しきるのに十分な証拠も持っていた可能性が高い。

実際、人間の脳は情報を完全に効率よく処理する装置ではないので、完全なベイズ主義者が一般相対性理論に圧倒的な確信を割り当てるために原理上必要な量よりも、アインシュタインはおそらく圧倒的に多くの証拠を持っていた。

「それなら、善良なる神を気の毒に思うだろう。理論は正しいのだから」。この観点から見れば、それほどひどい発言には聞こえない。そして、あの広大な可能性の空間の中から、一般相対性理論が実際に正しかったことを忘れてはならない。