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スコット・アーロンソンは、多世界解釈とリバタリアニズムは、どちらも不都合な帰結をかわすのでなく、のみ込むという点で似ていると述べている。
リバタリアニズムと多世界解釈は、どちらも壮大な哲学理論だ。ほとんどの教養ある人が受け入れている前提(一方は量子力学、もう一方は経済学入門)から出発し、教養ある人の大半が拒否する、あるいは少なくとも困惑する結論(並行宇宙の存在/消防署を廃止することの望ましさ)へ至ると主張する。
これは、私にはとても思いつかなかった類比だ。
私は以前、科学は多世界解釈を退けるが、ベイズは受け入れると論じた。(ここで「科学」を英語では大文字で始まるScienceと書いているのは、単に現実の科学という社会的過程ではなく、理想化された形の科学について話しているからだ。)
さらに私には、(小文字のlで始まる)リバタリアニズムと科学の間に、深い類比があるように思える。
- どちらも、もっともらしく聞こえる議論への実際的な不信に基づいている。
- どちらも、その中にいる人々よりも信頼できる仕組みを作ろうとする。
- どちらも、人間には欠点があると認め、その欠点を仕組みの原動力にしようとする。
リバタリアニズムの中核にあるのは、「XYZという規則を作るだけで、社会はどれほどよくなるだろう」という魅力的な理論に対する、歴史に裏づけられた不信である。そんな方法が本当にうまくいくなら、社会が局所最適から大域最適へと移るにつれて、規制が増えるほど経済成長も高くなるはずだ。だが、ある個人や利益集団が、自分たちがよいと思うことをすべて実行できるだけの権力を得たとき、実際に起こるのは革命期のフランスやソビエト・ロシアのようなことだ、と歴史は教える。
魅力的な理論の上では、皆が末永く幸せになれるはずだった計画が、もっともらしい議論の予測どおりの結果をもたらすわけではない。そして権力は人を腐敗させ、腐敗した人を引き寄せる。
だから、規制はできるだけ少なくする。魅力的な理論も、それを実行する人間も、信用できないからだ。
利己的だと言って人々を叱りつけることはしない。取引は自発的でなければならないとすることで、利己的な参加者から効率的な生産の仕組みを作ろうとする。すると人々は、全体の利益が増えるゲームをせざるをえなくなる。それが、相手に契約書へ署名してもらう方法だからだ。暴力が抑えられ、契約が守られるようにすれば、個々人の利己心が、全体として生産的な仕組みを動かす力になる。
もちろん実際には、理論どおりにそれほどよくは機能しない。ここでは市場の失敗や共有資源の問題などには立ち入らない。リバタリアニズムの中核的な論拠は、完全な世界でならうまくいくということではなく、現実に持ち込んで性能が落ちても、破綻せず機能するということだ。もっと正確に言えば、既知の他のどの経済原理よりも、落ち方がましだということである。(リバタリアニズムを、完全な人々のための完全な解決策と見る人は、この「実際的な不信」の趣旨を、どうも取り違えているように思う。)
科学が最初に自らの姿を自覚したのは、アリストテレスの言葉を信じることへの反乱としてだった。その革命の担い手が、「アリストテレスではなく、自分たちを信じよう!」と言っただけなら、フランス革命のように一時的に輝いて消えていただろう。
だが科学革命が続いたのは、アメリカ革命と同じく、その設計者たちが、もっと奇妙な哲学を掲げたからだ。「誰も信用しないようにしよう! 自分たち自身さえも!」
最初にあったのは、アリストテレスの机上の推論を捨てて、別の机上の推論に置き換えるだけではだめだ、という考えだった。自然に語りかけ、返ってくる答えに実際に耳を傾ける必要がある。これ自体が、天才的な着想だった。
だが次には、それを実行する難しさがあった。人々は頑固で、実験の下す判決を受け入れたがらないかもしれない。不満げに指を振って、「いけません」と叱ればよいのだろうか。
そうではない。個々の科学者は自分の理論に狂ったように執着するかもしれない、と想定して受け入れるのだ。その傾向を訓練でなくせるとも想定しない。公平なはずの「高名な裁判官」を選ぼうとはしない。
その代わり、自分の理論を証明したいという個々の科学者の頑固な願望を、利用しようとする。こう言うのだ。「新しい実験の予測を出し、実験してください。あなたが正しく、その実験が再現されれば、あなたの勝ちです」。科学者がこれを信じている限り、自分の理論を反証できる実験をする動機が生まれる。負ける可能性を受け入れて初めて、勝つことができる。また、大きな主張には再現が求められる。そうしなければ大恥をかくおそれがあることが、科学者に正直でいる動機を与える。
こうして、個々の科学者の頑固さを利用して、集団の水準では知識が絶えず生み出されていく。仕組みは、その構成員よりいくらか信頼できる。
リバタリアニズムは、実は、大半の人には二度と行かないレストランでもチップを払う程度の向社会性があることに頼っている。人間並みの能力を持つ、本当に利己的なエージェントだけでできた経済は、内側から崩壊するだろう。同じように科学も、大半の科学者は、理屈をつけても正当化できないほどひどい罪は犯さない、ということに頼っている。
学界の政治的な駆け引きによって自分の理論を推せると科学者が信じるほど、あるいは統計的手法の抜け穴を利用して、負ける可能性なしに勝つ可能性を得られると信じるほど、あるいは誰もわざわざ主張の再現を確かめなくなるほど、科学の有効性は低下する。だが、そうした事態にしては、比較的穏やかに低下する。
成功した予測は、それを最初に行った理論と理論家のものであり、後から来た理論が、新たな実験の予測もせずに横取りすることはできない。この点は、この社会的過程の重要な特徴だ。
結局のところ、科学と確率論は簡単には折り合わない。確率論の計算を正しく行えば、合理的な答えが得られる。だが科学は、あなたの合理性を信用しない。真偽の判定役として確率論を使うあなたの能力には頼らない。決着のつく実験を組み立てることを求めるのだ。
科学を、確率論に基づく何らかの合理性の理想への近似にすぎないと見るのは……確かに合理的に見えるだろう。ベイズの定理こそ、科学が機能する理由を説明する隠れた構造だという、実にもっともらしい議論もあるように思える。だが、科学をベイズ主義の壮大な体系の下に置き、適切に思えるときにはベイズ主義が割り込んで科学の判決を覆せるようにするのは、些細な一歩ではない!
科学は、あなたはあまりに愚かで、自分を欺きやすいので、ただソロモノフ帰納法を使えばよいわけではない、という想定を中心に作られている。だって、それで済むほど簡単なら、科学という社会的過程などいらないだろう……そうではないか。
では結局、あなたは光より速く働く、量子「収縮」の妖精を信じるのだろうか。それとも、自分はそこまで愚かではないと思うだろうか。