非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

記号を中身で置き換える

Replace the Symbol with the Substance

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前のエッセイの例のように、「野球の試合」を「長い木の円柱で、投げられた球状の物体を叩き、それから四つの安全な場所の間を走る、人工的な集団間の対立」と見るには、何が必要だろう? カードに載っていない同義語を見つけるのではなく、おなじみの概念の取っ手を使わずに記述する方法を探す、合理主義者版のタブーをするには、何が必要なのか?

目に浮かべなければならない。初めて見るかのように、心の目で細部を見なければならない。初めてのように見ることをしなければならないのだ。

それは「バット」か? 違う。長くて丸く、先細りになった木の棒だ。一端が細くなっているので、人間が握って振れる。

それは「ボール」か? 違う。対称的な縫い目の模様がある、革で覆われた球状の物体だ。硬いが金属ほどではなく、人が握って投げたり、木の棒で叩いたり、受け止めたりできる。

あれは「ベース」か? 違う。競技場に固定された位置だ。その人工的なゲームの規則の中では安全なので、選手たちはできるだけ速くそこへ走ろうとする。

初めてのように見ることを妨げる最大の障害は、心がすでに、すっきり整った要約、使いやすい小さな概念の取っ手を持っていることだ。「野球」「バット」「ベース」といった言葉のように。慣れた道、楽な道、抵抗の最も小さい道を心が滑り降りないようにするには、努力がいる。そこでは、小さく特徴のない言葉が飛び込んできて、見ようとしていた細部を消し去ってしまう。言葉そのものに、決まり文句の破壊力が宿ることがある。言葉そのものが、蓄えておいた思考の毒を運ぶこともある。

タブーをすること――いつものポインター、ラベル、取っ手を使わずに記述できること――は、合理主義者の基本的な能力の一つだ。絶えず「なぜ?」と尋ねる習慣や、

「この信念は何を予想させるのか?」と問う習慣と同じ、根本的な位置を占める。この技は、次のものと密接につながっている。

「失われた目的」から。

あなたがこれを読んでいる今も、どこかの若者が大学の机に向かい、使うつもりも、知ること自体への興味もない内容を、熱心に勉強している。高給の仕事が欲しい。その仕事には一枚の紙が必要で、その紙には先に修士号が必要で、修士号には学士号が必要だ。そして学士号を出す大学は、卒業の条件として12世紀の編み物の模様の授業を受けるよう求める。だから若者は、期末試験が行われた瞬間にすべて忘れるつもりなのに、せっせと勉強し、真剣に取り組み続ける。その一枚の紙が欲しいからだ。

なぜ「学校」に行くのか? 「学位」に至る「教育」を受けるためだ。禁じた言葉とその明らかな同義語をすべて消し、実際の細部を思い浮かべよう。そうすれば、今の「学校」は退屈した十代の若者の隣に座り、すでに知っている内容を聞くことらしい、「学位」は何かが書いてある一枚の紙だ、「教育」は試験が終わるとすぐ内容を忘れることだ、と気づきやすくなる。

穴のある一般化は、しばしば分類を通じて現れる。教室で実際に学んでいる人は「教育を受けている」と分類される。だから「教育を受ける」のはよいことのはずだ。だが、実際に大学に来さえすれば、学んでいるかどうかにかかわらず、「教育を受けている」という概念に当てはまってしまう。

数学を理解している学生はテストでよい点を取る。だが、学校によいテスト成績を出すよう要求すれば、学校はすべての時間をテスト対策に使うだろう。目標と不完全にしか一致しない心の中のカテゴリーも、同じ種類のインセンティブの失敗を内側で引き起こせる。学びたいから「教育」が必要だ。すると、「教育」というカテゴリーに当てはまる何かを得ているかぎり、実際に学んでいるかどうかに気づかなくなるかもしれない。あるいは気づいても、もとの目的を見失ったとはわからない。「教育を受けている」し、頭の中では目標をそう記述していたのだから。

分類することは、情報を捨てることだ。倒れる木が「音」を出すと言われても、実際の音がどんなものかはわからない。木の倒れる音を実際に聞いたわけではないからだ。コインの「表」が出たとしても、その面が平面内でどちら向きかはわからない。青い卵形の物は「ブレッグ」かもしれないが、卵の形や青の色合いが厳密には違うとしたら? カテゴリーを使って無関係な情報を捨て、砂ぼこりから金をより分けたいのに、いつもの分類は関連のある情報まで捨ててしまうことが多い。そして、そうした心の問題に陥ったとき、最初の、最も明白な解決策はタブーをすることだ。

たとえば、「タブーをする」自体が穴のある一般化である。ハズブロ社の版は、合理主義者版ではない。カードには追加の禁止語が五つ載っているだけで、慣れた古い言葉で考えるのを防ぐには、まるで足りない。合理主義者のすることは、「タブーをする」に当てはまる。その概念に当てはまるのだ。だが、「タブーをする」に当てはまるすべてのことが、初めてのように見ることを強いるわけではない。単に「タブーをして、初めてのように見よう」と考えれば、タブーに当てはまることなら何でも、初めてのように見ることにも当てはまるはずだと思い始めるだろう。

合理主義者版はゲームではない。だから、うまいことを考えて規則を拡大解釈しても、勝ちにはならない。自発的に不利な条件を課してタブーをしなければならない。カードに載っていない同義語も、使わないようにする。古い言葉と同じ概念の取っ手として働く、新しい単純な語句を発明することもやめる。したいのは、地図を拡大して見ることであって、都市の名を変えることではない。ポインターの参照先に進むことであって、新しいポインターを割り当てることではない。出来事が起こる姿を見ることであって、決まり文句を違う言い方で書き直すことではないのだ。

問題をもっと詳しく思い描くと、失われた目的が見える。「タブーをする」とき、具体的には何をするのか? その一つ一つの部分が、どんな目的に役立っているのか?

自分の行動や状況を初めてのように見れば、自分の目標も初めてのように見られる。初めてであるかのように新鮮な目で見られれば、習慣でなかったなら、しようと夢にも思わないことを、自分がしているのに気づくだろう。

中身(学び、知識、健康)が記号(学位、テストの点数、医療)に置き換わるたびに、目的は失われる。失われた目的や、情報を失う分類を修復するには、その逆をしなければならない。

記号を中身で置き換える。意味するものを意味されるもので置き換える。性質を、その仲間に属するかどうかの判定で置き換える。言葉を意味で、ラベルを概念で、要約を細部で、代用の問いを本当の問いで置き換える。ポインターの参照先に進む。組織化の低いレベルへ降りる。過程に名前をつける代わりに、頭の中で動かしてみる。地図を拡大する。

「単純な真実」は、この修練を使って「真実」をもっと低い組織化のレベルで記述する練習から生まれた。「正確」「正しい」「表す」「映す」「意味論的」「信じる」「知識」「地図」「現実」といった言葉を持ち出さずに、だ。(ただし、本当の目的はタブーをすることではないのを忘れてはいけない。本文には「真」という語が出てくるが、真実を定義するためではない。ハズブロ社のゲームならブザーを鳴らされるが、私たちは実際にそのゲームをしているわけではない。文章が規則に従ったかどうかではなく、目的を果たしたかどうかを問おう。)

ベイズの規則そのものは、「含意する」「意味する」「支持する」「証明する」「正当化する」といった言葉を使わず、純粋な数学で「証拠」を記述する。そのような哲学用語を定義しようとすれば、堂々巡りするだけだろう。

そして、禁じるべき最も重要な言葉がある。私はそれを使いすぎないよう、あるいは場合によってはその概念を避けるよう、何度も警告してきた。これで、その本当の理由がわかっただろう。考える題材として悪いわけではない。だが、本当に理解しているかは、その言葉や同義語を使わずに、自分が何をしているのか、なぜしているのかを説明できるかどうかで測られる。