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合理性の技には、論点に近づくという修練がある。もとの問いにできるだけ近い証拠を観察し、それによって、ほかの議論をできるだけ多く遮断しようとすることだ。
ライト兄弟が「私たちの飛行機は飛ぶ」と言う。彼らの権威に目を向けるとしよう。自転車の修理工で、たまたま優れたアマチュア物理学者でもある。その権威を、たとえばケルヴィン卿の権威と比べれば、ケルヴィン卿のほうが権威は上だとわかる。
ライト兄弟の計算を見せてほしいと求め、それを理解でき、さらにケルヴィン卿にも計算を見せてほしいと求めたなら(彼にはおそらく、自分には信じられないということ以外、計算などない)、権威はずっと重要でなくなる。
実際に飛行機が飛ぶのを見たなら、多くの目的において計算自体ももはや問題ではなくなり、ケルヴィン卿の権威など考慮する価値すらない。
途中の推論を挟まず、あなたの論拠がその問いに直接関わるほど――大いなる因果の網の中で、観察したノードが、答えを知りたいノードに近いほど――その証拠は強力になる。この種の因果グラフには、遠くのノードから得られる情報は、それを遮断する、厳密により近いノードから得られる情報よりも多くなることは決してない、という定理がある。
ジェリー・クリーヴァーはこう言った。「あなたを駄目にするのは、高度で入り組んだ複雑な技法を使い損ねることではない。基本を見落とすことだ。ボールから目を離すことだ」1
肩書より物理を論じるほうがよいのと同じく、合理性より物理を論じるほうがよい。ライト兄弟とケルヴィン卿のどちらがより合理的だったのか? 計算を確かめられるなら、そんなことは気にしなくていい! 合理主義者としての徳が、直接飛行機を飛ばすわけではない。
この原則を忘れると、バイアスについて学べば学ぶほど、自分を害することになる。もっと直接的な論拠から注意がそれてしまうからだ。誰にでも当てはめられる非難の持ち札から「バイアス182番」を取り出して、相手がそれに陥っていると論じるのはいとも簡単だ。だが、もっと近い証拠がなければ、事実に関する問題に決着をつけることはできない。太陽が輝いていると言う理由にバイアスがあっても、そのせいで外が暗くなるわけではない。
いつでも今日中に実験できるとは限らないのと同じように、いつでも今日中に計算を確かめられるとは限らない。背景知識が足りないこともあれば、非公開の情報があることもあり、単に時間がないこともある。話し手の合理性を判断する価値がある場合は、残念なほど多い。ただし、そうするときはいつも、何かが欠けているという、胸にぽっかり穴のあいた感覚を忘れないでほしい。
できるときにはいつでも、もとの問いにできるかぎり踊り寄ろう。ぴったりと身を寄せよう。問いを抱きしめられるほど近くまで!
Jerry Cleaver, Immediate Fiction: A Complete Writing Course (Macmillan, 2004). ↩