非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

私たちのような人間が協力できない理由

Why Our Kind Can’t Cooperate

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まだ出席を強いられていたころ、通っていたシナゴーグの毎年の募金を覚えている。記憶が正しければ、実に単純な形式だった。ラビと会計係が会堂の支出を説明し、この年一度の募金がいかに大切かを話す。それから会員たちが、席から寄付する額を声に出した。

わかりやすいだろう?

別の年次募金の話をしよう。機械知能研究所の初期に、実際に私が行ったものだ。違いの一つは、インターネット上で呼びかけたこと。もう一つは、対象の大半が、無神論者、リバタリアン、技術好き、SFファン、新製品に早く飛びつく人、プログラマーなどの層だったことだ。(人々の空間における経験的なクラスターを、大まかに指している。「人々の空間における経験的なクラスター」がわかったなら、誰のことかもわかるだろう。)

募金の呼びかけは、慎重に練った。私は性分として、他人に助けを求めるには自尊心が高すぎる。だが年月をかけて、その抵抗感の60%ほどは克服した。非営利組織には金が必要で、成長は遅すぎた。だからその年の呼びかけには、力と詩情を込めた。支持してくれそうな人の大半を網羅する、いくつかのメーリングリストへ送った。

すると、ほとんどすぐに、なぜ自分は寄付しないかという投稿が始まった。組織の理念や使命に根本的な疑問を投げかける人もいた。自分たちではなく、組織が資金を得られるほかの出所について、素晴らしい案を語る人もいた。(自分でその出所に連絡すると申し出るのではない。私たちがどうすればよいかという案だけだった。)

ここであなたは言うかもしれない。「でも、理念や使命に、本当に根本的な問題があったのかもしれない。その議論を検閲したくはないだろう?」

その考えは、覚えておいてほしい。

実際に、寄付する人はいたのだ。PayPalを通して、すぐ寄付が入り始めた。この呼びかけでようやく行動できたと、喜ぶ言葉まで届いた。111ドル11セントの寄付には、こう添えられていた。「少しだけ多く出すことにしました。100ドル札をもう1枚、10ドル札をもう1枚、1ドル札をもう1枚、10セント硬貨をもう1枚、1セント硬貨をもう1枚。みんなが一人のためでなくても、この一人はみんなのためであろうとしています」

だが、その寄付者の誰も、賛意をメーリングリストに投稿しなかった。一人も。

寄付者たちには、自分だけが寄付したように見えていた。翌日リストを見ると、感謝ではなく、なぜ寄付すべきではなかったかという議論に出会った。批判、寄付しないことの正当化——それだけが堂々と公開されていた。

まるで会計係が年次募金の呼びかけを終えると、寄付しない人全員が誇らしげに立ち上がって拒む理由を叫び、寄付する人は、誰にも聞こえないよう小声でささやくようなものだった。

合理主義的な目的を掲げる知人に、こう嘆いて回る人がいる。「ラエリアンの空飛ぶ円盤カルトは、まったくのたわごとで何万人、約4万人も集められるのに、なぜこちらは千人さえ、この活動に集められないんだ?」

この考えの明らかに間違った結論は、「ラエリアンと同じことをしよう! このミームにも、たわごとを足そう!」だ。倫理的な抑制ですぐ止まらない人のために言うと、有名になった空飛ぶ円盤カルト一つにつき、失敗したものが百あるかもしれない。また暗黒面には、一見わからない技能が要るかもしれない。あなた、そう、あなたにはない技能が。誰でもシスの暗黒卿になれるわけではない。とくに、つく予定の嘘を公開のインターネットで話せば、失敗だ。私は犯罪の達人ではないが、それでも、悪党に向いていない人がいることくらいはわかる。

だから、自分たちより劣るはずだと思う別の集団のほうが、金や支持者を多く持っているからといって、本来の取り分を奪われたような気持ちを育てるのは、よい考えではないだろう。その道は——言い方を許してもらえば——暗黒面へ通じる。

だが、いわゆる「合理主義者」が、空飛ぶ円盤カルトほどにも協調できないなら、自分たちへ鋭い問いを向け始める意味は、確かにあるだろう。

暗黒面では、どうなっているのか?

敬われる指導者が話すと、純粋な賛同の合唱が返る。内心に疑いを持つ人がいても、胸の内にしまっておく。だから聴衆の一人ひとりは、全員賛同している空気を見て、提示された考えにますます自信を持つ。自分には内心の疑いがあっても、何しろほかの全員は同意しているように見えるのだから。

(これの標準的な名は、「多元的無知」だ。)

それでも納得しない人は、集団を去る。場所によっては処刑される。残った人々の一致度は上がり、邪魔が減って、互いをいっそう補強する。

(私はこれを「集団の蒸発冷却」と呼ぶ。)

指導者だけでなく、考えそのものが、限りない熱意と賛美を生む。ハロー効果とは、よい性質についての認識がすべて相関することだ。たとえば食品保存料の利点を被験者に説明すると、論理的には両者は無関係なのに、そのリスクも低く評価するようになった。これが正のフィードバックとなり、ある考えを、ますます、ますますよいものに見せる。とくに、批判が裏切りや罪とみなされる場合には。

(これを私は「感情の死のスパイラル」と呼ぶ。)

これらはすべて、集団を結束させる強力な暗黒面の力の例だ。

おそらく私たちは、そんなことで手を汚したりはしないだろう……。

だから光の側は、集団としては常に分裂し、弱い。技術好き、オタク、科学者、さらには原理主義でない宗教も、急進的なイスラム主義を動かす狂信的な団結では行動できない。技術の優位にも限界がある。道具は模倣され、盗まれ、こちらへ向けられる。結局、集団間の争いでは光の側がいつも負け、未来は必然的に闇のものになる。

この見通しへの反応には、「合理性」に対する態度がよく現れると思う。

「文明の衝突」を論じる一部の書き手は、啓蒙主義が長い目では急進的なイスラム主義に負ける運命を受け入れ、ため息をつき、悲しげに首を振るように見える。冷笑的で洗練された自分を示そうとしているのか、何かなのだろう。

私自身は、変人と呼んでもらってかまわないが、本物の合理主義者は現実世界で有効に働くべきだと、ずっと思っていた。

だから、暗黒面が多元的無知や感情の死のスパイラルのおかげで私たちよりうまく協調し、いつも勝つという考えには、問題を感じる。

本当の合理主義者なら、もっとうまく協調できるはずだ、と思わないだろうか? あれほど不合理なら、不利な点もあるはずだ。あのやり方が最適であるはずはないだろう?

そして、いまの「合理主義者」集団が協調できないなら、たった一つのシナゴーグが会員から寄付を集めるほどにも集団の事業を支えられないなら——その三段論法の結論は、あなたに任せよう。

私がときどき使う言葉がある。「半分だけ合理主義者であるのは危険だ」

たとえば、合理性の技法を選択的に教えて、誰かの知能を損なう方法なら思いつく。論理的誤謬と認知バイアスを長々と教え、他人の議論で見つける訓練をする。だが選ぶのは、他人に最も指摘しやすく、一般的で、誤用しやすいものだけ。そして、自分と相容れない議論の欠陥を調べるのと同じくらい厳しく、自分が同意する議論も調べよとは、警告しない。こうして、嫌いな議論や論者だけに向ける、豊富な欠陥のレパートリーができる。賢い人が愚かになる主要な道の一つは、これではないかと思う。(なお、たった今私は、嫌いな議論をする賢い人への、また一つ、何にでも使える反論を与えたことに注意してほしい。)

同様に、「合理主義者」の集団が、二人以上を必要とする仕事を何一つ成し遂げないようにしたければ、個人の合理性の技法だけを教え、集団で協調する合理性の技法には一切触れなければよい。

どうすれば合理主義者がもっとうまく協調できると思うかは、後でもっと書く。だがここでは、不一致の文化、あるいは異議の文化とも呼べるものに焦点を当てたい。技術好きの人々の協調を妨げる、二つの大きな力の一つだ。

会議に出ていて、話し手が30分の講演をしたと想像してほしい。その後、質問のためマイクの前に列ができる。最初の質問者は、スライド14のグラフが対数目盛を使っていることに異議を唱え、タフテの『The Visual Display of Quantitative Information』を引用する。二人目はスライド3の主張に異議を唱える。三人目は、同じデータを説明できそうな別の仮説を提示する……。

まったく普通だろう? では、会議で30分の講演があり、その後マイクの前に人が並ぶところを、もう一度想像してほしい。

一人目が言う。「お話しになったことすべてに同意します。あなたは素晴らしいと思います」。そして脇へ退く。

二人目が言う。「スライド14は見事で、たくさん学びました。最高です」。脇へ退く。

三人目は——。

さて、三人目の話は永遠にわからない。そのころには、あなたは叫びながら部屋を逃げ出しているからだ。演壇からクトゥルフが飛び出したかのような、骨の髄までの恐怖に駆られて。ありえないほど不自然な現象が、自分の会議に侵入した恐怖に。

確かに、不一致を許さない集団は合理的でない。だが、不一致しか許さず、同意は許さないのなら、やはり合理的ではない。一部の正直な思いだけは聞き、ほかは聞こうとしない。危険な、半分だけの合理主義者なのだ。

空飛ぶ円盤カルトの会員が離れていると落ち着かないのと同じくらい、私たちは一緒にいると落ち着かない。それも正しいはずはない。愚かさの逆は知性ではない。?

二つの兵士の集団があるとしよう。集団1では、兵卒は戦術も戦略も知らず、軍曹だけが戦術を、将校だけが戦略を知る。集団2では、あらゆる階級の全員が、戦術も戦略もすべて知っている。

集団1は命令に従うのに、集団2では全員が、与えられた命令よりよい考えを思いつくので、1が2に勝つと予想すべきだろうか?

この場合、集団2が軍事理論を本当にどれほど理解しているか疑わしい。協調しない烏合の衆は虐殺される、というのは初歩的な命題だからだ。

知識が増えて結果が悪くなるのは、何かをひどく間違えているということだ。いつでも少なくとも、無知なら使ったのと同じ戦略は実行できるべきであり、できればもっとよくやるべきだ。間違っても、もっと悪くなるべきではない。自分の「合理性」を後悔していると気づいたなら、何が合理的かを考え直すべきだ。

一方、半分だけの合理主義者なら、知識が増えて悪くなるのは簡単だ。政治的な意見を持つ学生は、その問題をよく知っているほど、自分と相容れない証拠への反応が弱かった、という見事な実験を思い出す。合わない証拠だけに反論する材料を、より多く持っていたからだ。

私たちは部分的な合理性のひどい谷間に落ち込み、宗教原理主義者より協調できず、空飛ぶ円盤カルトの信者ほど努力を注ぎ込めないようだ。確かに、どうにか実行するわずかな努力は、人を害するのでなく助ける方向へ、よりよく向けられているかもしれない。だが、それは許される言い訳ではない。

私が合理主義者を体系的に訓練するなら、異議の唱え方と同意の仕方の両方を教える。異議にもっと気楽に向き合うための授業と、同調にもっと気楽に向き合うための授業を設ける。ある日は全員が違う服で来て、別の日には全員が制服で来る。両側を扱わなければ、半分だけの合理主義者だ。

合理主義者を志す人に、制服を着せ、一糸乱れず行進させ、互いに同意し、演壇の話し手が言うことすべてに拍手する練習をさせるところを、想像できるだろうか? 言葉にできないほど恐ろしく、この活動全体が邪悪なカルトだと、公然と認めたように聞こえるだろう? だが、ほかの全員に反対する練習はよいのに、なぜこちらの練習はいけないのか? 多数派に同意しなければならないことは、一度もないつもりなのか?

私たちの文化は、英雄的な不同意と英雄的な反抗ばかり強調し、英雄的な同意や集団の合意は強調しない。他人の議論へ巧妙な反論を考え出して、優れた知性と、非同調者の共同体の一員であることを示す。技術好きやシリコンバレーの人々が周辺にとどまり、社会の中でもっと同調的な勢力に負けるのは、それが理由なのかもしれない。いや、優れすぎているから負けるのではない。個人主義一辺倒の伝統が、協力する能力を損なっているから負けるのだ。

技術好きの共同体で集団の努力を妨げるもう一つの大きな要素は、強い感情を恥じることだと思う。頭の中にはまだ、スポックを原型とする無感情としての合理性がこびりついている。あるいは関連した誤り、冷笑としての合理性かもしれない。他人ほど気にしていないと見せて、世慣れた洗練ぶりを示そうとする。何かを強く大切にしていると見せるほど世間知らずな人を、これ見よがしに、人前で見下すようにするのだ。

演壇の話し手が、たとえば老化との闘いを、進んで命を捧げてもよいほど強く大切にしていると言ったら、居心地が悪くならないだろうか?

だが確率論にも意思決定理論にも、合理主義者は大切に思ってはいけない、などとは書いていない。式は調べたが、本当に書いていないのだ。

私が聞いた合理性の非形式的な定義で最もよいのは、「真実によって壊せるものは、壊されるべきだ」だ。目指すべきは無感情ではなく、事実にふさわしい感情を持つことだ。真実で壊せる感情なら、手放すべきだ。だが、努力する価値のある目的なら、ぜひその大切さを十分に感じよう。

命を捧げる価値のあるものは、ある。そう、本当に! それを認め、他人がそう言うのを聞くことに慣れられなければ、集団の事業に努力を注ぐだけ十分に大切に思うことも、十分に協調することも難しくなる。両方を教えなければならない。「真実によって壊せるものは壊されるべきだ」と、「真実に育まれるものは、豊かに育つべきだ」を。

たとえば科学論文で感情的な言葉を禁じることは、邪魔なく事実同士に争わせるための重要な一部だ、という議論を聞いたことがある。だからといって、どこにでもその禁止を適用すべきとは限らない。人生には、強く感情的な言葉、雄弁、詩に拍手することを学ぶべき場面もあると思う。すべきことがあるとき、詩的な訴えはその達成を助ける。したがって、それ自体が拍手に値する。

逆効果の活動や、正当化されない訴えを暴く努力が、本当に必要な仕事を踏みにじらないようにしなければならない。逆効果の活動を離れる意志と、生産的な活動を称える意志。根拠のない訴えに動かされない強さと、根拠のある訴えに動かされる強さ。両方が必要だ。

年次募金のシナゴーグは、本当に正しかったと思う。列を順に回って一人ずつ追い詰め、じっと見て「シュワルツさん、あなたはいくら寄付しますか?」と聞いていたわけではない。人々は、劇的にでも誇らしげにでもなく、ただ額を告げ、それがほかの人も同じようにする励みになった。出せるものがない人は黙り、異論のある人は前か後の別の時間に話した。それがおそらく、正気の人間の共同体のあるべき姿だ。人は、自分が望むほど意欲を持てないことがよくあり、その意志の弱さを、周囲の励ましで乗り越えやすくなるのだから。

この点に同意しなくても、支持する意見と支持しない意見の両方が、公に語られるべきだったとは言えるだろう。支持者の前に、反論と不一致の一枚岩の壁しかないように見えることは、たとえ自分たちの居心地の悪さによる自己検閲の結果でも、集団の合理性ではない。暗黒面の集団が信者をつなぎ止めるためにすることの、ただの鏡像だ。愚かさの逆は、知性ではない。