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私が意味するのは、次の二つである。
- 認識論的合理性(epistemic rationality):自分の信念の正確さを体系的に高めること。
- 道具的合理性(instrumental rationality):自分の価値を体系的に実現すること。
目を開けて周囲の部屋を見れば、あなたはテーブルとの位置関係からノートパソコンの場所を把握し、壁との位置関係から本棚の場所を把握する。目や脳に何か問題があれば、本棚などない場所に本棚があると心のモデルが告げるかもしれない。そして本を取りに行けば、期待を裏切られることになる。
誤った信念を持つとは、こういうことである。世界という領土に対応していない地図を持つことだ。認識論的合理性とは、代わりに正確な地図を作ることである。信念と現実とのこの対応関係は、一般に「真実」と呼ばれており、私もそう呼ぶことに異存はない。
一方、道具的合理性とは、現実を操舵すること、すなわち未来を自分の望む方向へ進ませることである。自分の選好においてより高く順位づけられた結果につながる行動を選ぶ技法だ。私はこれを「勝つこと」と呼ぶ場合もある。
したがって合理性とは、真なる信念を形成し、勝利につながる決定を下すことである。
ここで「真実」を追求するとは、不確実な証拠や間接的な証拠を退けることではない。周囲の部屋を見てその心的地図を作ることは、原理上、地球に溶融した核があると信じることや、ユリウス・カエサルが禿げていたと信じることと変わらない。そうした問いは、時空間的にあなたから遠いため、本棚についての問いよりも漠然として抽象的に思えるかもしれない。それでも、2015年(西暦)の地球の核の状態についても、50年(紀元前)のカエサルの頭の状態についても、れっきとした事実が存在する。カエサルや地球の核と直接対面する方法が永遠に見つからなくても、これらの事実はあなたに現実の影響を及ぼしうる。
また、ここでいう「勝つこと」は、他者を犠牲にする必要もない。人生という企ては、競争ではなく、協力や自己犠牲をめぐるものでもありうる。「あなたの価値」とは、他者を含め、あなたが大切に思うあらゆるものを意味する。利己的な価値や他者と共有されない価値に限られない。
人が「Xは合理的だ!」と言うとき、それはたいてい、「私はXが真だと思う」あるいは「私はXがよいと思う」を、もっと強い口調で言い換えたにすぎない。では、「真」や「善」に加えて、なぜ「合理的」という言葉まで必要なのだろうか?
「真」という言葉を使うことについても、同じような反論ができる。「雪は白い」と言えば済むところを、「雪が白いということは真である」と言う必要はない。真実という考えが役に立つのは、それによって地図と領土の対応関係に共通する性質を論じられるからである。「真なるモデルは、通常、偽なるモデルよりも優れた実験予測を生む」というのは有用な一般化だが、「真」や「正確」といった概念なしには述べられない。
同様に、「合理的な行為者は、整合的な効用関数の確率的期待値を最大化する決定を下す」という考えは、(道具的)合理性という概念に依存している。一方、「野菜を食べるのは合理的だ」は、おそらく「野菜を食べるのは役に立つ」や「野菜を食べるのはあなたの利益になる」と言い換えられる。真実や価値を体系的にもたらす思考法に共通する事実、そして私たちがその基準を体系的に満たせない仕方について述べるには、「合理的」のような概念が必要なのである。
実験心理学者は、ときに非常に奇妙に見える人間の推論を発見する。たとえば、ある人が「ビルはジャズを演奏する」確率を、「ビルはジャズを演奏する会計士である」確率よりも低いと評価する。どのジャズを演奏する会計士も、明らかにジャズを演奏する人なのだから、これは奇妙な判断に思える。しかし、その判断を誤りと呼ぶとき、私たちはどのような、より高い見地に訴えているのだろうか?
実験心理学者は二つの標準的な基準を用いる。確率論と決定理論である。
確率論は、合理的な信念を支える法則の体系である。確率の数学は、(a)本棚の場所を突き止めること、(b)地球の核の温度を突き止めること、(c)ユリウス・カエサルの頭に何本の髪があったかを推定することを、等しく、区別なく記述する。どれも、証拠と観察をどう処理して信念を修正(「更新」)するかという同じ問題である。同様に、決定理論は合理的な行動を支える法則の体系であり、人の目標や利用できる選択肢が何であっても同じように適用される。
「P(これこれのこと)」を「これこれのことが起きる確率」、P(A, B)を「AとBがともに起きる確率」とする。P(A) ≥ P(A, B)は確率論の普遍法則なので、P(ビルはジャズを演奏する)がP(ビルはジャズを演奏する、ビルは会計士である)より小さいという判断は誤りとされる。
専門的な言い方をすれば、この確率判断は非ベイズ的である。この数学的に明確に定義された意味で合理的な信念と行動は、「ベイズ的」と呼ばれる。
ここで、現代的な合理性の概念は、言葉による推論だけを指すのではないことに注意してほしい。私は、目を開いて周囲を見渡し、壁際に本棚のある部屋の心的モデルを作る例を挙げた。現代的な合理性の概念は十分に一般的なので、あなたの目や脳の視覚野も、地図を作るものとして含まれる。言葉にならない直観も含まれる。英語の同じ「rational」という語を、スポックにもベイズ主義にも使うかどうかなど、数学には関係ない。数学がモデル化するのは、目標を達成したり世界を地図にしたりするための優れた方法であり、その方法が「合理性」についての先入観や固定観念に合うかどうかではない。
それでも、実践上「合理性」が何を意味するかという問題は、まだ完全には尽くされていない。大きな理由が二つある。
第一に、ベイズの形式体系を完全な形で用いることは、現実世界のほとんどの問題で計算上実行不能である。クォークの運動を計算して株式市場を予測できないのと同じように、実際に数学をすべて計算し、それに従える者はいない。
だからこそ、公理を並べた一枚のページで終わらず、「LessWrong」というサイトが丸ごと存在する。人間の心の内側から真実を見つけ、価値を実現するには、さらに一つの技法体系が必要なのだ。自分自身の欠陥を知り、バイアスを乗り越え、自己欺瞞を防ぎ、真実に向き合って必要なことを行えるよう自分の感情を整える、等々である。
第二に、数学そのものの意味が問題にされる場合がある。たとえば、観察者の数が不確かな人間原理に関する問題では、確率論の厳密な規則が問われる。ほかの行為者が決定前にあなたの決定を予測しうるニューカム型の問題などでは、決定理論の厳密な規則が問われる。1
こうした場合、「合理的」という語に何か新しい定義を考え出し、「ゆえに、定義上、私の好む答えこそ『合理的』という語の意味である」と言って問題を決着させようとしても無益である。なぜその定義に誰かが注意を払うべきなのか、という問いが生じるだけだ。私は、確率論がラプラスから授けられた聖なる言葉だから興味を持つのではない。ベイズ流の信念更新(オッカム事前分布を伴うもの)が、私たちを体系的に、ほら、正確さへ、領土を映し出す地図へと近づけると期待するから興味を持つのである。
そして、確率論にも決定理論にも十分に答えられていないように見える思考上の問いもある。たとえば、真実を得た後、それをどう感じるべきかという問いである。ここでも、「合理性」を特定の仕方で定義しようとしても、答えを裏づけるのではなく、答えを前提に置くことにしかならない。
私は、たとえその語が「合理性」であっても、言葉の意味を論争しに来たのではない。特定の概念に特定の文字列を結びつける目的は、二人の人間が意思疎通できるようにすること、つまり、ある心から別の心へ思考を運ぶのを助けることである。どの意味をどの言葉に結びつけるかを操作しても、現実を変えたり、考えを証明したりはできない。
したがって、「合理性」という語、そして「認識論的合理性」「道具的合理性」という下位語で私がおおむね何を指しているかをあなたが理解したなら、私たちは意思疎通を果たしたのである。「合理性」をどう定義するかを話すことで達成できることは、すべて達成した。残る論点は、「ご・う・り・せ・い」という音にどの意味を結びつけるかではない。残るのは、何がよい思考法なのかという問題だ。
もしあなたが「私がXを信じるのは(認識論的に)合理的だが、真実はYである」と言うなら、おそらく「合理的」という語を私とは別の意味で使っている。(たとえば「合理性」は内省の下で整合的であるべきだ。証拠を「合理的に」検討することと、自分の心が証拠をどう処理するかを「合理的に」検討することが、二つの異なる結論を導くべきではない。)
同様に、「私がすべき(道具的に)合理的なことはXだが、正しいことはYである」と言っている自分に気づいたなら、ほぼ間違いなく「合理的」か「正しい」のどちらかを別の意味で使っている。私は「合理性」という語を規範的に、望ましい思考様式を指し示すために使っている。
この場合、あるいは言葉の意味について人々が争うほかのどんな場合でも、「合理的」の代わりに、もっと具体的な言葉を置くべきである。「逃げるのが自分の利益になるが、それでも少なくとも線路から子どもを引きずり出そうとはしたい」、あるいは「通常の定式化による因果的決定理論では、ニューカムの問題で二箱を選ぶべきだとされるが、私はむしろ100万ドルを手にしたい」と言えばよい。
実際、このエッセイを読み返し、「合理的」という語をすべて「フーザル的」に置き換えてみることを勧める。それで私の言っていることの含意が何か変わるだろうか。変わるなら、私はこう言おう。合理性ではなく、フーザル性を目指せ、と。
「合理的」という語には落とし穴もありうるが、私の意図を伝えるのに「合理的」が十分役立つ、境界事例でない場合も多い。「非合理的」も同じだ。そういう場合、私はこの語を使うことを恐れない。
とはいえ、この語を使いすぎないよう注意すべきである。大声で唱えただけでは一点も得られない。〈道〉を語りすぎれば、〈道〉には至らない。