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「合理主義者」になろうとする人にありそうな特徴の一つは、推論の欠陥に対する許容度が普通より低いことだ。厳密にいえば、そうなるとは限らない。たとえば、自分の宗教を捨てるに至ったのは、推論により多くの欠陥やより根深い欠陥を見つけたからであって、同じ大きさの欠陥に対して、生まれつきより強く苛立つからではないかもしれない。だが現実には、私たちの多くは「目につく欠陥の数々への苛立ち」の設定値が、平均よりいくぶん高いのだろう。
だからこそ、一緒に何かを成し遂げたいなら、他人の寛容さに寛容であることが、私たちにはとても大切なのだ。
私にとって、寛容である必要を感じる寛容さの代表例は、ベン・ゲーツェルだ。彼はAIの研究会議を毎年主催するなどの活動をしており、誰についても何かしらよいことを言う。ベンは、AIのトンデモ論者の中でも最も伝説的なM*nt*f*xの考えさえ褒めた。(M*nt*f*xは、メールの署名にベンの賛辞へのリンクを加え始めたらしい。おそらく、本物のAI研究者から褒めてもらったのが、それだけだったからだろう。)(彼の真の名を正確に唱えないでほしい。ここに召喚されてしまうので。)
だが私は、これがベンの強みの一つなのだと理解するようになった。他の人なら無視するような大勢の人にも親切にする——たとえば私にも——そして、それがときどき彼にとって実を結ぶのだ。
私が見込みなしと思う人や企画について何かよいところを見つけて褒めるからといって——たとえそれがM*nt*f*xであっても——ベンへの評価を下げるなら、私は、ベンと一緒に働く条件として、私が嫌う相手を彼も全員嫌うことを要求しているわけだ。
それは現実的な基準だろうか。とりわけ、何にどれほど苛立つかが、人によって違うのなら?
だがベンが、あれほど大勢の愚か者に親切にしていると、そのことを心に留めておくのが難しい。
ゲーム理論でも進化生物学でも、裏切りに対する何らかの罰がなければ、協力は不安定になる。だから、誰かが自分で直接犯した間違いに対して、その人の評価を下げるのはまだわかる。だが、ある人物や考えを糾弾しようとしないからといって、その人まで白眼視するなら、それは罰しない者への罰である。はるかに危険なやり方であり、関係者全員に有害な均衡でさえ、固定してしまいうる。
罰しない者を罰する危険を、私は折に触れて自分に言い聞かせる。たとえばロビン・ハンソンが、学界のお決まりの言説の欠陥を指摘しながら、それでも自分が間違っているかもしれないと控えめに認めるたびに(実際には彼は間違っていない)。あるいは、紹介されて30秒もしないうちに私が見込みなしと見切った相手の可能性を、マイケル・ヴァッサーがまだ検討しているのを見るたびに。私は自分に言い聞かせなければならない。「寛容さに寛容であれ! 自分の嫌うあらゆるものに対して、味方にも同じくらい極端な否定的判断を要求するな!」
性分として、誰かが他人を買いかぶっているように見えると、私は実際に苛立つ。誰もがそうなのかはわからないが、合理主義者を目指す仲間の少なくとも一部はそうなのではないかと思う。人類に普遍的な性質だったとしても驚かない。それには進化上の理由が明らかにあり、その理由を考えれば、実に不愉快で、危険な適応だということになる。
私は一般に「寛容さ」の信奉者ではない。一部の人が一貫性なく唱える「不寛容に対して不寛容であれ」を信じているわけでも、もちろんない。だが、自分より寛容な人々には寛容であろうと努め続け、その人自身の、他人から借りてきたものではない間違いだけで判断しようと思う。
ああ、それから言うまでもないが、集団Xの人たちが要求するような目であなたを見つめ、適切な敵を適切な強さで憎むのを待ち構え、あなたの糾弾の声が十分大きくなければあなたを糾弾する気でいるなら、付き合う集団を間違えているのかもしれない。
ただ、一緒に働く全員に、そうした振る舞いに対して同じくらい不寛容であることを求めないように。友人の中に、集団Xも結局それほどひどくはなかったのでは、と言う人がいても許してあげよう……。