非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

孤独な異議

Lonely Dissent

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アッシュの同調実験は、たった一人でも異論を唱える人がいると、周囲に「同調」して誤答する割合が大幅に減ることを示した。反抗する仲間がいれば個人主義は簡単だ、と実験は教えている。部屋の中で、自分以外の被験者が一人を除いて全員、黒を白だと言う。あなたは黒は黒だと言う二人目になる。それは素晴らしい気分だ。あなたたち二人は、世界を敵に回した、孤独で不屈の反逆者なのだから!(追跡面接では、異議を唱える人が一人いた条件の被験者は、その人に強い仲間意識を示した。もちろん、その人がいたことが自分の非同調に影響したとは思っていなかったが。)

だが、反乱に加われるのは、どこかの誰かが最初に反抗してからだ。ほかの全員が次々に黒を白と言うのを聞いたあとで、誰かが黒は黒だと言わなければならない。そして、それはずっと難しいと、実験は示している。

孤独に異議を唱えるのは、黒ずくめの服で登校するような気分ではない。ピエロの衣装で登校するような気分なのだ。

それが、反乱に加わることと、群れを離れることの違いである。

私が我慢できないものを一つ挙げるなら、それは見せかけだ。もうお気づきかもしれない。さて、孤独な異議ほど、よく、しかもこれ見よがしに装われる性質は、そう多くないはずだ。誰もが因習を打ち破る人になりたがる。

反乱に加わることを貶めるつもりはない。加わる価値のある反乱もある。仲間の反感に、あるいはそれ以上につらいかもしれない無関心に、あえて立ち向かうには勇気がいる。言うまでもなく、ロックコンサートに行くのは反乱ではない。だが、たとえば菜食主義はそうだ。私は菜食主義者ではないが、そういう人々を尊敬している。夕食にハンバーガーは食べられないと人に伝えるには、無視できないだけの静かな勇気がいると思うからだ。(もっとも、ベイエリアでは、食事の制限は普通に尋ねてもらえる。)

それでも、菜食主義者だと伝えれば、人々はあなたの動機が分かったと思う。実際には分かっていなくても。反対するかもしれない。十分誇らしげに宣言すれば、不快に思うかもしれないし、そもそも気に障りやすい人だからというだけで不快になるかもしれない。だが、あなたとどう接すればよいかは分かっている。

黒い服で登校する人がいれば、教師やほかの子どもたちは、その人が自分たちの社会でどんな役割を引き受けたのか理解する。それは「体制の外」だ。誰もが見慣れて理解している、きわめて定番の形で。つまり、実際に体制の外というわけではない。それは、定番の種類の「普通の考え方への挑戦」だ。人々は腹を立てて「どうしてあなたはそんな――理解できない」と言うが、実際には、考えたことのないことを考える必要はない。こんな言葉がある。「あなたが読んだ『反体制文学』のどれか一つでも、あなたの政治的見解を変えさせたことがあるだろうか?」

本当の勇気がいるのは、周囲の人たちのまったくの無理解に立ち向かうことだ。「定番の反抗その37」ではないこと、相手の頭に出来合いの台本がないことをするときに。彼らはあなたを反逆者として憎むのではない。ただ、なんだか変な人だと思って背を向ける。その見通しは、はるかに深い恐れを生む。菜食主義を説明することと、クライオニクス(人体冷凍保存)を説明することの違いだ。世界のどこかには、ほかにもクライオニクスを支持する人がいる。だが、その人たちは隣にはいない。ただ変だと思う人たちに、一人で説明しなければならない。禁じられているのではなく、人々が考えもしない境界の外なのだ。自分の頭を凍らせるの? それで死なずに済むと思っているの? 脳の情報って、どういうこと? は? 何? 正気なの?

進化心理学を使って、あとづけの説明を試みたくなる。少数の友人と一緒なら、狩猟採集の集団から出ていける。だが、森で一人きりで生きなければならないのは、おそらく死刑宣告だった。少なくとも、生殖の面では。私たちはこれを明示的に考えて判断するわけではないが、そもそも進化心理学はそういう話ではない。誰もが知る反乱に加わるのは怖い。だが、本当に違うことをする怖さには遠く及ばない。祖先の時代なら、集団の分裂ではなく、自分一人が追放される結末になったかもしれないことをする怖さには。

クライオニクスの例が物語るように、本当に違う考え方をする恐れは、死の恐れより強い。狩猟採集民は、大型哺乳類を狩ったり、捕食者のいる世界をただ歩き回ったりする中で、日常的に死に向き合う覚悟が必要だった。生きるには、その勇気が要った。部族の標準的な考え方に逆らい、本当に奇妙に見える思考を検討する勇気は――おそらく、その持ち主にそれほど役立たなかった。私たちが明示的にそう推論しているのではない。進化心理学はそういう仕組みではない。人間はただ、クライオニクスに申し込む人よりスカイダイビングをする人のほうが、ずっと多くなるようにできているのだ。

それさえ、最高の勇気ではない。世界にはクライオニクスを支持する人が複数いる。最初に言い出さなければならなかったのは、ロバート・エッティンガーだけだ。

科学の革命家になるには、知り合いのほかの全員の考えに、最初に反対する人にならなければならない。それだけが科学上の偉業への道ではない。偉大な人々の中でさえ、そうした革命家はまれだ。革命的な姿をまねようとして、科学の革命家になることはできない。そこへたどり着けるのは、正しい答えが革命的かどうかに関係なく、あらゆることに正しい答えを求めることによってだけだ。だが、時が満ち、蓄積してきた知識の力と知恵をすべて吸収し、さらにいくらかの運にも恵まれ、その末に、ただ正しさを追う道が、新しい領域へ自分を連れてきたと気づいたなら……そのとき初めて、勇気がくじける機会が訪れる。

これが孤独な異議の真の勇気であり、そこらじゅうのくだらないロックバンドが、こぞって装おうとするものだ。

もちろん、勇気のいることがすべて良い考えとは限らない。崖から踏み出すにも勇気はいるが、そのあとは地面に叩きつけられるだけだ。

孤独な異議への恐れは良い考えを妨げる。だが、異論がすべて良い考えというわけではない。ロビン・ハンソンの自由思想家に反対するも参照してほしい。科学において新しく正しい考えを持つ難しさの大半は、「正しい」の部分にある。

違っているためだけに違っている必要など、本当にない。圧倒的に良い理由が見えるときだけ違うことをしても、残りの人生を埋める以上に十分な苦労が待っている。

本物の因習打破者の群れも、少しは存在する。たとえばサブジーニアス教会は、普通の人々を単に怒らせるのではなく、本当に困惑させることを目指しているように見える。そして世界には、SF大会のような、真に寛容な島もある。群れを離れるのを恐れない人々は、確かにいる。自分を反逆者だと思っている人より、実際の数ははるかに少ないが、存在はする。それでも、科学の革命家は桁違いにまれなのだ。そこを考えてほしい。

さて、私はというとね、本当に因習打破者なのだ。誰もが自分をそうだと思っているが、私の場合は本当なのだよ。ピエロの衣装でだって、間違いなく登校していただろう。私が真剣に語り合った相手は、ほかの子どもたちではなく、本だった。

だが、自分も間違いなくピエロの衣装を着ると思うなら、それもあまり誇ってはいけない! それはただ、安易に異論を唱えすぎないよう、逆方向へ努力する必要があるということだ。私も、自分の性質を補正するために、それをしなければならない。他人がそう考えるのにも、理由が確かにある。それをまったく無視するのは、反対するのを恐れるのと同じくらい悪い。自由思想家で終わりたくはないだろう。それは美徳ではないのだ。どちらに偏っても、ただのバイアスなのである。