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以前の私は、メタ倫理学についてひどく混乱していた。ようやく混乱が晴れた後、昔の考えを事後検証した。すると、具体的な道徳問題についての推論は有益だったのに、メタレベルの道徳推論は、無益どころか有害だったとわかった。これは一般的な傾向らしい。人は「よい」「悪い」の意味を論じるときより、拷問がよいか悪いかを論じるときのほうが、ずっとうまく考える。だから私は、できるかぎり道徳の議論を具体的な対象のレベルに保つのが賢明だと考えている。
道徳は存在しないという理由で、道徳を論じること自体に反対する人も、ときどきいる。その際は、「存在する」はここでは適切な言葉ではないと説明する代わりに、たいてい「でも、実際にはどう行動するのですか?」と言い、具体的な対象のレベルへ話を戻す。
しかしポール・ガウダーは、一つの残虐行為よりもグーゴルプレックス個の些細な不便を選ぶという考えも、「功利主義」という考えも、「直感」に依存していると指摘した。私が両者は両立しないと論じた一方で、自分が頼る功利主義的な直感の根拠を示していない、と批判している。
私は、人間の道徳の根底にあり、道徳を考える私たちを、完全に空っぽの理想的哲学者や石と区別する計算を、「直感」とは呼ばないだろう。だが、専門的な意味を与えた用語として「直感」を使うことには異存はない。ただし、この意味の直感は理性と対比されるものではなく、長い言語的議論も、速い知覚上の判断も、そこから組み立てられる認知的な部品なのだと心得ておく。
私には、道徳という営みは、直感を繰り込み直す営みに見える。望ましいものと望ましくないものについての直感、正しい行為と間違った行為についての直感、対立する直感をどう解決するかについての直感、個別の直感を一般原則へ体系化する方法についての直感が、私たちにはある。
直感をすべて消しても、完全に空っぽの理想的哲学者は残らない。残るのは石だ。
個別の直感をすべて保ち、省察に関する直感を土台に考えを築くことを拒んでも、完全に自然体で偽りのない理想的哲学者は残らない。残るのは、選好の循環や同様の不整合のために、唸りながら堂々巡りする原始人だ。
こういう用語としての「直感」は、道徳に関しては悪口ではない。ほかに何を根拠に議論できるというのか。モーダス・ポネンスさえ、この意味での「直感」だ。ただ、形式化し、省察し、帰結をたどって妥当な結果になるか確かめるなどしても、なおよい考えに見えるというだけだ。
「直感」とは、そういうものだ。
しかしガウダーは、「功利主義」で何を意味しているのかは述べていない。功利主義は、次のどれを言うのだろう?
- 正しい行為は、よい帰結だけで厳密に決まる。
- 称賛に値する行為は、よい帰結への正当化可能な期待によって決まる。
- 帰結は、その確率に応じて割り引いて扱うべきであり、悪いことが50%の確率で起こるなら、トレードオフの中での重みは、正確に半分にすべきだ。
- 有徳な行為は常に、何らかの効用関数のもとで期待効用を最大化することに対応する。
- 有害な出来事が二つ起こるのは、一つより悪い。
- 同じ害が独立に二度起こることは、同じ人に対してでなく、互いに影響し合わないなら、一度起こることの正確に2倍悪い。
- どんな二つの害AとBでも、AがBよりずっと悪いなら、Aがその確率で起こる賭けを、確実なBより好ましくするほど小さな確率が、何か存在する。
私が何かを主張しているとか、議論が何かに依存していて、それが間違っていると言うなら、その「何か」を具体的に示してほしい。ともかく私は、3、5、6、7は認めるが、4は認めない。1の言い方には確信が持てない。2は、おそらく正しいが、かなり独我論的で自己中心的な言い方だ。称賛に値するかどうかを気にするべきではない。
では、私の「功利主義」は、どの「直感」に依存するのか? かなり深い話だが、手短に取り組んでみよう。
まず、誰かに上のような主張の一覧を示され、どれが「直感的」に聞こえるかを選んだだけではない。とりわけ、「功利主義」を破ろうとすると、逆説や矛盾、選好の循環などに出会う。それらは、道徳的な悪さというより、道徳的な不整合の徴候だ。
しばらく道徳問題を考え、世界について新しい真実を知り、さらには自分自身の働き方についての不穏な事実さえ発見すると、最初とは違う道徳的意見を持つようになることが多い。それで道徳的進歩を定義できるわけではないが、私たちはそうやって道徳的進歩を経験する。
私が経験した道徳的進歩の一部として、どこへ行くべきか?という問いと、どうやってそこへ行くべきか?という問いを、概念上区別するようになった。(ガウダーが私を「功利主義的」と言うのは、このことだろうか?)
道がどこへ続くか、どこへ導くかという問いには、その道を進んで確かめれば答えられる。道の行き先について偽の信念を持っていれば、その偽りは、ごく直接的で素直な仕方で真実によって打ち砕かれる。
特定の場所へ行きたいという望みも、真実の破壊力から完全に免れてはいない。実際に行って、後悔するとわかることはありうる。(これで道徳的な誤りを定義できるわけではないが、私たちはそうやって道徳的な誤りを経験する。)
それでも、ある場所にいたいと思うことは、その場所へ特定の道を通って行きたいと思うことと、区別する価値があるように思える。
どこへ行くかについての直感にも、十分議論の余地はある。だが、どう行くかについての直感は、率直に言ってめちゃくちゃだ。問題の見せ方を間違えると、人は自分の足を切り落としてしまう、と示す287本目の研究を読むころには、第一印象を疑い始める。
規模への鈍感さについて十分な研究を読むと――オンタリオの原生自然地域を1か所保護するより、全57か所を保護する場合でも、人は28%しか多く払わない。5,000人の命を救うにも50,000人を救うにも、払う額は同じ。そういった話を読むと……。
私が聞いた中で最悪の例は、スロヴィックがここで述べていたものだ。
ほかの最近の研究も、同じような結果を示している。イスラエルの心理学者二人が、人々に高額の救命治療への寄付を求めた。病気の子ども8人の集団に寄付してもよいし、その中から選ばれた一人に寄付してもよかった。一人を救う場合も全員を救う場合も、必要な目標金額は同じだった。集団の個々の子への寄付は、集団全体への寄付をはるかに上回った。1
同種の研究はほかにもあるが、例は一つだけにしておく。ほら、8例挙げると、かえって印象が薄くなるかもしれないから。
一般的な実験の仕組みを知っていれば、この行動の理由はかなり明らかだ。一人の子に注意を集中するほうが、8人に同時に注意を配ろうとするより、強い感情が湧く。だから、人は8人を助けるより一人を助けるほうに、多くのお金を払おうとする。
この直感を見て、一人の子の幸福は、ほかの子の幸福によって何らかの仕方で価値が下がるという、信じがたいほど深い道徳的真実を明かしているのだ、と考えることもできるだろう。
だが、世界にいるほかの数十億人の子どもはどうなるのか? この一人を助けると、ほかのすべての子の価値が下がるのなら、なぜ助けるのは悪い考えではないのか? 幸せな子どもが1,329,342,409人より1,329,342,410人いるほうが大幅によいのに、さらに7人増えて1,329,342,417人になると、いくらか悪くなるなどということが、どうしてありうるのか?
あるいは、こう言ってもよい。「この直感は間違っている。脳は8倍して、もとの量より大きな量を得ることに失敗している。だが、規範的には、そうできるべきなのだ」。
脳には8倍の掛け算もできないと気づけば、規模の無視のほかの事例も、50,000人を救う価値は5,000人を救うのと同じ労力に値する、といった根本的な真実を示すようには見えなくなる。合算できない効用についての、深い道徳的真実の啓示を見ている気はしない。ただ、脳がまったく掛け算できないだけだ。数量は窓の外へ投げ捨てられる。
100ドル使えるとして、5,000人を救う取り組み五つに20ドルずつ使うより、50,000人を救う一つの取り組みに100ドル使うほうがよい。同じ人ではなく、10人の別々の人がそう選択する場合も同じだ。25,000人を救うより50,000人を救うほうがよいと信じ始めるや否や、その単純な目的地の選好は、それぞれ5,000人を救う五つの異なる出来事を考える際、経路の選択にも含意を持つ。
(ベイズ主義者にとって、長期の答えと短期の答えに違いはない、というのが一般原則だ。同じ問いを二つの方法で計算して、二つの答えを得ることは決してない。だが長期の話は直感を引き出す助けになるので、あえて話している。)
「黙って掛け算する」という、価値を合算する戦略は、何かをより多く得たい、できるだけ多くの命を救いたいという単純な選好から生じる。一度だけでなく選び、行動し、複数の時点で計画するための一般原則を、記述しなければならないときに。
合算は、目の前の一人の命を救う選択は、惑星の反対側や宇宙の反対側にすでに何人いるかには依存しない、という主張からも生じる。三つの命とは、一つと一つと一つだ。ほかの何十億人がよくなろうと、悪くなろうと関係ない。等式の両辺にほかのどんな数量を足しても、3 = 1 + 1 + 1である。もう一人加えれば、4 = 1 + 1 + 1 + 1になる。これが合算だ。
ヒューリスティクスとバイアスの研究を十分に読み、ベイズ確率と期待効用の整合性・一意性の証明も十分に読み、不確かな結果をほかの方法で扱おうとすると損をする「ダッチブック」や「マネーポンプ」の効果を見れば、アレのパラドックスでの選好の逆転を、確実性の内在的価値についての信じがたいほど深い道徳的真実だとは見ない。ただ、脳がまったく掛け算できないことを示すだけだ。
選択を「よい感じ」にする原始的な知覚上の直感は、時間を通る確率的な経路を、あまりうまく扱わない。確率を頻度として経験せず、記号で表された場合は特にそうだ。だから、省察し、もっと信頼できる論理を工夫し、言葉で考え抜く。
どんな金額も一人の命には換えられないと言い張りながら、10ドル節約するために余計に1マイル運転する人を見たとき。どんな金額も健康の低下には換えられないと言い張りながら、最も安い健康保険を選ぶ人を見たとき。その強い言葉が、比較不可能な効用について何か深い真実を明かしているとは思わない。
一因は明らかに、少量を表す記号の感情的な影響を、原始的な直感がうまく小さくできないことだ。口にしたことは何であれ、「考慮するに値する量」に思える。
もう一因は、条件付きの社会規則より、無条件の社会規則を好むことだ。条件付きの規則は弱く、操作されやすく見える。政府が合法的に拷問できる抜け穴が少しでもあれば、政府はそこへトラックを通すだろう。
だから、命よりお金を選ぶことを無条件に禁じ、「ただし」を一切つけない社会的な戒めがあるべきだと思える。「ただし、0.0000000001%の確率で命が救われることに、1,000ドルの価値はない」とさえ言ってはならない。もちろん後者の選択は、くしゃみをしても医者を呼ばないたびに、明らかにされているのだが。
神聖さを訴える言葉は、無制限の献身、無条件の拒絶を表すように見えることで、加点される。信頼でき、妥協しないという合図になるからだ。すると、道徳的な言葉が質的な区別を掲げるのは、量的なトレードオフを掲げると、裏切りを企んでいるように聞こえるからだ、と結論することになる。
こういうとき、人々は数量を窓から投げ捨てたがる。持ち込もうとすると怒る。数量は、規則を弱める条件に聞こえるからだ。
だが、だからといって、辞書式に順序づけられた二段階の効用が実際にあるとは結論しない。無限に鋭い道徳的な勾配があり、ある原子が、連続的な私たちの物理宇宙でプランク長だけ動くと、効用がゼロから無限大へ飛ぶのだとは結論しない。効用は超実数で表さなければならないとも結論しない。なぜなら、その場合、下位の段階はどんな方程式からも事実上消えるからだ。そのために再計算する、ほんのわずかな労力さえ、割に合わない。上位が本当に辞書式に優先するなら、すべての決定が上位で決まり、すべての思考も上位だけに費やされる。
ピーター・ノーヴィグが指摘したように、アシモフのロボットがロボット工学第一法則――「ロボットは人間に危害を加えてはならず、何もしないことで人間が危害を受けるのを許してもならない」――を厳密に優先するなら、どのロボットの行動にも、ほかの二法則の影は一切現れない。決定を左右するのに十分な、ごく小さな第一法則上の要因が、いつでも何かあるからだ。
そもそも考える価値のあるものは、ほかの考える価値のあるすべてのものと、トレードオフする価値もなければならない。思考自体が、配分しなければならない有限の資源だからだ。価値を示すとき、効用を示している。
道徳はいつも単純であるべきだとは言わない。音楽の意味は単なる幸福にとどまらない、単に快楽中枢が活性化する以上のものだと、すでに述べた。誰かが作曲の喜びを得られるよう、意識のない機械学習アルゴリズムではなく、人が作曲することを望む。目的地だけでなく、道のりも大切なのだ。音楽の価値は私が理解するより深く、複雑なのだと、この一つの出来事の評価は私が知るより複雑なのだと言うなら、聞く用意がある。
だが、それは一つの出来事についての話だ。数量や確率を掛けることについては、複雑さは避けるべきである。少なくとも、道のりより目的地を大切にするならば。十分な直感を省察し、十分な不合理を正していくと、共通の分母、働いているメタ原則が見えてくる。それを「黙って掛け算する」と表現してもよいだろう。
音楽については、道のりを大切にする。
命がかかっているときは、黙って掛け算する。
命を救うときに特定の儀式に従うことより、命が救われることのほうが重要だ。そして、その目的地への最善の経路は、数学だからこそ単純な法則に支配される。
だから私は功利主義者なのだ。少なくとも、それについての自分の気持ちより、圧倒的に重要なことをしているときは。それはたいていの時間に当てはまる。功利主義者は少なく、まだなされていないことは多いからだ。
Paul Slovic, “Numbed by Numbers,” Foreign Policy (March 2007), http://foreignpolicy.com/2007/03/13/numbed-by-numbers/. ↩︎