非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

幸福のためだけではない

Not For the Sake of Happiness (Alone)

❦

数年前、未来学者のグレッグ・ストックに会ったとき、彼は、科学的発見の喜びは、やがてその喜びを再現できる薬に置き換わるだろうと論じていた。講演後に近づいて、私はこう言った。「そんな薬がおそらく作れることには同意します。でも、自分から飲もうとは思いません」

ストックは言った。「でも、その薬はあまりによくできているので、本物は太刀打ちできなくなりますよ。科学の仕事を実際に一つ一つこなすより、薬を飲むほうが、ずっと楽しくなるのです」

私は言った。「それが可能だという点には同意します。だから、絶対に飲まないようにするのです」

ストックは私の態度に心底驚いたようだった。そのことに、私のほうが心底驚いた。倫理学者が、人間の欲求はすべて、原理的には、自分や他人が幸福であってほしいという欲求に還元できるかのように論じるのを、よく見かける。(とりわけ、ちょうど読み通したサム・ハリスの『信仰の終わり』がそうだ。もっとも、ハリスの還元は、主要な論題というより、通りすがりに撃っていくようなものだが。)1

これは、あらゆる幸福を共通の効用尺度で測れるかどうかを論じることとは違う。異なる幸福は異なる尺度に属するかもしれないし、ほかの理由で換算不能かもしれない。また、自分自身の心理状態以外の何かを価値あるものとするのは理論的に不可能だ、と論じることとも違う。ほかの人が幸福かどうかを気にかけることは、依然として許されるからだ。

問われているのはむしろ、私たちを幸福にしてくれるものを、それがもたらす幸福とは別に、大切にするべきかどうかである。

幸福以外のものを重視したために、道徳を説く人が道を誤った例は、いくらでも挙げられる。いまだにオーラルセックスを禁止している州や国は、格好の例だ。そうした立法者は、「まあ、好きに楽しめばいい」と言っておいたほうがよかっただろう。しかし、だからといって、あらゆる価値が幸福に還元できるわけではない。この特定の場合には、ほかのものを重視したのが倫理的な間違いだった、ということを示すだけだ。

私たちが、自分を幸福にすることをしがちなのは、否定できない事実だ。しかし、その行動の唯一の理由が幸福だとみなすべきだ、ということにはならない。第一に、そうすると、他人の幸福をどうして気にかけられるのか説明が難しくなる。どうして人を、温かな満足感を得るための道具ではなく、それ自体を目的として扱えるのか、ということだ。

第二に、何かが自分の行動の結果だからといって、それが唯一の正当化の理由だったとは限らない。ブログ記事を書いているときに頭痛がしたら、私はイブプロフェンを飲むかもしれない。その行動の結果の一つは、感じる痛みが減ることだ。しかしそれは、結果がそれだけだったとは限らないし、判断の最も重要な理由だったとさえ限らない。頭痛がない状態に、私は価値を認める。だが、あるものをそれ自体のために大切にすると同時に、目的を達成する手段として大切にすることもできる。

すべての価値が幸福に還元できると言うには、判断の大半に幸福が関わることを示すだけでは足りない。すべての判断において幸福が最も重要な帰結であると示しても、まだ足りない。幸福が唯一の帰結でなければならないのだ。これは満たすのが難しい基準である。(この指摘を最初に見つけたのはソーバーとウィルソンの論文だったが、どの論文かは定かでない。)

芸術それ自体のために芸術を大切にすると言うなら、誰も見ない芸術にも価値を認めるだろうか。閉ざされた部屋でスクリーンセーバーが動き、誰も見ない美しい絵を生み出していたら? 認めないと言わざるをえない。まったく生命のない物を、単なる手段ではなく目的として大切にする例は、思いつかない。それは、誰かが食べることとは別に、アイスクリームそのものを目的として大切にするようなものだ。思いつく限り、私が価値を認めるものにはすべて、どこかで人とその経験が関わっている。

いちばんうまく言うなら、私の道徳的直観は、十全な価値を認めるために、客観的な要素と主観的な要素の両方を求めているようだ。

科学的発見に価値があるためには、本物の科学的発見と、その発見を喜ぶ人の両方が必要だ。この二つの価値を切り分けるのは難しく思えるかもしれないが、あの薬を考えれば、はっきりする。

人々がホロデッキに引きこもり、心のない壁紙に恋をするようになったら、私は心を痛めるだろう。本人たちが、そこがホロデッキだと気づいていなくても、だ。人を気づかれないままホロデッキに移し、愛する人をゾンビに置き換えられる存在がいるかもしれないなら、これは重要な倫理的問題になる。ここでも薬を考えれば、はっきりする。私が気にしているのは、不愉快な事実に自分が気づいているかどうかだけではない。あとから薬を飲んでその事実を忘れられるとしても、自分をホロデッキに入れはしない。私が未来を進めたいのは、単にそんな方向ではないのだ。

私は自由を大切にする。未来をどちらへ向けるか決めるとき、人々が最終的にどんな主観的状態になるかだけでなく、自分自身の努力の結果としてそこに達したかどうかも考慮する。外から操る者がいるかいないかは、それ以外は同じ結果に対する私の評価を変えうる。本人たちが操られていると知らなくても、人類が自らの未来をどれだけうまく実現したかという私の判断には関わる。人々に気づかれないまま、善意からその未来を調整できるほど強力な存在を相手にするなら、これは重要な倫理的問題だ。

だから、私の価値観は幸福に厳密に還元できるものではない。私が価値を認める未来の性質には、誰かの快楽中枢の活性度には還元できないものがある。原理的にすら、主観的状態に厳密には還元できない性質があるのだ。

つまり、私の意思決定の仕組みには、たくさんの終端価値があり、そのどれもほかの何かには厳密に還元できない。芸術、科学、愛、欲情、自由、友情……。

私はそれでかまわない。挑みがいと美しさが生まれるほど複雑な人生に価値を認める。人生が複雑だという感覚だけでなく、実際の複雑さを大切にしている。だから、水槽の中の快楽中枢になることには魅力を感じない。それは人類の可能性を無駄にすることになる。その可能性が実現したように感じるだけでなく、実際に実現することを、私は大切にしているのだ。

Harris, The End of Faith: Religion, Terror, and the Future of Reason. ↩︎