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病気でも怪物でも戦争でも、何かによって人々が死んでいるとしよう。そして手持ちの資源では、次の二つの選択肢のうち、一方しか実行できないとする。
- 確実に400人の命を救う。
- 90%の確率で500人の命を救う。10%の確率では、誰も救えない。
大半の人は選択肢1を選ぶ。私は、それは愚かだと思う。500人の命に90%という確率を掛けると、救える命の期待値は450人となり、選択肢1の400人を上回るからだ。(救われる命には限界効用の逓減がないので、これは適切な計算である。)
「何だって!」と、あなたは怒って叫ぶ。「人命を賭け事の対象にするなんて! これほど大事なものがかかっているときに、数字のことを考えるのか? もしその10%のほうが起きて、全員死んだらどうする? おまえのいまいましい論理も、そこまでだ! 合理性に従って崖から落ちようとしているんだぞ!」
だが、面白いのはここだ。選択肢を次のように示すとする。
- 確実に100人が死ぬ。
- 90%の確率で誰も死なない。10%の確率で500人が死ぬ。
すると、過半数が選択肢2を選ぶ。同じ賭けなのに、だ。つまり、400人の命を救えるという確実性が、不確実な利得よりもずっと心地よく感じられるのと同じように、確実な損失は、不確実な損失より悪く感じられるのだ。
二つ目の説明でも、大見得を切ることはできる。「これほど高い確率で救えるというのに、100人を確実な死に追いやるなんて! みんなでリスクを分かち合おう! 全員を救える確率が75%しかなくても、やる価値はある。可能性があるかぎり、全員が助かるか、誰も助からないかだ!」
いいか、これはあなたの気分の問題ではない。何十年もの生涯に積み重なる、あらゆる喜びと苦しみを含んだ一人の人間の命は、ある計画にあなたの脳が抱く心地よさや不快さより、はるかに価値がある。期待効用を計算するのは、あなたの好みには冷酷すぎるだろうか? だが、命がかかっているとき、その気分など天秤の羽毛一枚の重さにもならない。黙って掛け算をしよう。
グーゴルとは10100、1の後にゼロが100個続く数だ。グーゴルプレックスは、それよりさらに理解しがたいほど巨大な数で、10googol、つまり1の後にグーゴル個のゼロが続く。さて、しゃっくりのような些細な不都合と、加虐的な突然変異のサメに手足をゆっくり引きちぎられるような、明らかに些細ではない災難を考えてほしい。グーゴルプレックス人のしゃっくりを防ぐか、たった一人がサメに襲われるのを防ぐか、どちらかを選ばなければならないなら、どちらを選ぶべきだろう? しゃっくりに少しでも負の価値を割り当てるなら、意思決定理論上の整合性を失わないためには、ある回数のしゃっくりを足し合わせた負の価値が、サメの襲撃の負の価値に匹敵するはずだ。有限の悪であるかぎり、どんなものについても、それより悪くなるようなしゃっくりの回数があるはずなのだ。
こうした道徳的ジレンマは、夕食会で分析哲学者を楽しませるための、概念を使った残酷な見世物ではない。私たちが毎日実際に置かれる状況を、凝縮したものだ。ゲーム機用のゲームに50ドル使うべきか、それとも全額を慈善団体に寄付するべきか? たった一人の骨髄移植の費用を払うために70万ドルの募金活動を企画するべきか、それとも同じお金を蚊帳に使い、およそ200人の子どもがマラリアで死ぬのを防ぐべきか?
それでも、現実にあふれる不愉快な道徳的トレードオフから目を背ける人は多い。しかも、目を背けることを誇る人も多い。研究によれば、人は命のような「神聖な価値」と、お金のような「神聖でない価値」を区別する。神聖な価値と神聖でない価値を引き換えにしようとすると、被験者は激しい憤りを示す。(その提案をした人を罰したがることさえある。)
この種の話で私が特に気に入っているのは、ある事業の効果を評価した研究者チームの逸話だ。彼らは一人の命を救うのにかかる費用を計算し、費用対効果が高いから実施すべきだと政府に勧告した。担当の政府機関は、人の命にドルで値段をつけることはできないと言って、その報告書を退けた。そして報告書を退けた後、その施策を実施しないと決めた。
神聖な価値と神聖でない価値を引き換えにするのは、実にひどい気分になる。ただ効用を掛け合わせるなんて冷酷すぎる。合理性に従って崖から落ちることになる……。
だが、利他主義とは、利他的に振る舞ったときに得られる温かく心地よい気分のことではない。精神的な見返りのためにやっているなら、それは利己主義にほかならない。何よりも大事なのは、どのような手段であれ、他者を助けることだ。だから、黙って掛け算をしよう!
そして、この最大化に、法の抜き身の剣や、燃える太陽のような苛烈さを感じるなら、この合理性の中心に小さな冷たい炎があるように思えるなら――
たしかに、別のやり方のほうが、心の中ではよい気分になれるかもしれない。だが、それではうまくいかないのだ。
そして、私はあなたにこうも言おう。本来なら味わえたはずの精神的満足を惜しむ気持ちを脇に置き、自分が損をさせられているとは考えず、心からその道を追い求めるなら、何も出し惜しみせず合理性に身を委ねるなら、合理性もまたあなたに応えてくれることに気づくだろう。
だが、その部分がうまくいくのは、「もっと合理的でなくなれたら、心の中ではもっとよい気分になれるのに」と、自分に言い続けない場合だけだ。実際に人を助けられる機会があることを、悲しむべきだろうか? 自分の授かりものを重荷だと見なしていては、その可能性を最大限に発揮することはできない。