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とりわけ合理主義者につきまとう三つの大罪があり、その第三が、自信の不足だ。マイケル・ヴァッサーは、私がこの罪を犯しているとよく責める。地球上の全人類の中で、そうするのは彼だけだ。
だが、彼が心配するのは実際にもっともだし、私も心配している。熟練した合理主義者なら、おそらくかなりの時間を、その心配に使うだろう。被験者がバイアスを知っていたり、注意を受けたりすると、過剰な補正が実験結果に現れることもある。多くの認知的な小課題が厄介なのは、このためだ。偏りがあるとはわかるが、どれくらいかはわからず、十分に補正しているかもわからない。だから、もう少し補正すべきかもしれない。さらにもう少し。だが、それで十分なのか? あるいは、大きく行きすぎているのか? 補正を試みなかった場合より、今は悪くなっているのだろうか?
考えるほどに途方に暮れ、見積もるという作業そのものが、ますます無駄に感じられてくる……。
そして、自信、過信、自信不足という問題になると――ここでは適切に較正された信頼区間だけでなく、もっと広い意味で使っている――、過信を傲慢という罪とみなす自然な傾向がある。あの別の罪の一覧にある傲慢だ。その一覧には、謙虚さの不適切な使い方や疑いの濫用への警告はなかった。自分を高く置きすぎること、ふさわしい分を越えること、うぬぼれること、しゃしゃり出ること、暗黙の比較で仲間を貶めること。そして、その結果の屈辱や失墜、ときには人前での失墜。どれも忌まわしく、恐ろしいことではないか?
それと比べれば、控えめすぎることの罪は軽く見える。人前で指摘されても、それほど屈辱ではないだろう。実際、自分は思っていたより優れていると知れば、うれしい驚きかもしれない。自分を低く、暗黙に他人を高く置くことには、感じのよさという明るい色合いもある。ガンダルフがしそうなことだ。
だから、人間が誤る千もの方法を学び、匿名の被験者が過信のために恥をかく実験結果を百も読んでいたなら――いや、二、三十読んだだけでも――、しかも自分がどれほど過信しているか正確にはわからないなら、そう、自分を一歩低く押し下げすぎる危険は、本当にありうる。
これに対抗する完璧な公式は、私にはない。だが、助言なら一つか二つある。
自信不足の危険とは何か?
機会を逃すことだ。できたはずなのに、十分に挑まなかったために、しなかったことだ。
だから、第一の助言はこうなる。自分の実力を知る方法があるなら、試してみよう。仮説は検証できる。自分の能力についての仮説も同じだ。かつて私は、AIボックス実験で勝てるはずだと思った。非常に疑わしく、傲慢な考えにも思えた。そこで試した。後には、多額のお金がかかっていても勝てるかもしれないと思い、それも試したが、3回中1回しか勝てなかった。それが当時の私の能力の限界だった。議論で自己評価を上げたり下げたりする必要はなかった。ただ試せたからだ。
賢い人が愚かになる主な道筋の一つは、勝つことに慣れすぎて、勝てるとわかっている場所にとどまることだ。つまり、能力を伸ばさず、難しいことを何も試さない。
これは、自分を「努力」ではなく「知能」によって定義することと関係すると言われる。簡単に勝つことが「知能」の証しになるからだ。一方、難しい問題で失敗しても、それはよい努力をしたと捉えることができたはずである。
さて、熟練した合理主義者が、これらをそう考えるべきかどうか、私は少し疑問に思う。合理性は、勝つことを体系化したものなのだし、努力しようと努力するのは、失敗への道に見える。私ならこう言う。仮説は検証できる! 難しい問題で勝てるかどうかわからないなら、自分の合理性に挑戦を課し、現在の水準を発見しよう。試したことだけで自分を褒めるのは、普通は賛成しない。悪い思考習慣に思えるからだ。だが、試さないのは、確かにもっと悪い。挑戦に向き合う習慣を育て、そのうち少なくともいくつかに勝ってきたなら、「挑戦に向き合う習慣を保った。次もそうしよう」と思ってもよいのかもしれない。「今の水準と、改善が必要な場所について、貴重な情報を得た」と思ってもよい。ただし、その考えを「次回は、この同じ貴重な情報をまた得ることのないようにしよう」と、きちんと最後まで続けることだ。
毎回勝っているなら、自分の力を十分に伸ばそうとしていないということだ。だが、毎回、本気で勝とうとするべきだ。そして、失敗した自分を慰めすぎると、勝とうとする気概を失い、勝てない言い訳に甘んじる人になってしまう。
架空の「競争の陰謀団」の達人なら何と言うだろう、と想像すると、こうなる。「負けてもよい、わけではない。だが、負けた痛みは、それを恐れて挑戦から逃げるほど怖いものではない。慎重に感じないよう避けたり、ひどく負けたことを認めなかったりしなければならないほど、怖いものではないのだ。負ければ痛いものなのだ。痛くなければ、競争者ではない。そして、負ける痛みを一度も知らない競争者など、いない。さあ、出ていって勝て」。
挑戦に向き合う習慣を育てよう。即座に命を失うような挑戦ではないにせよ、恥をかく可能性のあるものには挑もう。最近、ある有神論者がクリストファー・ヒッチェンズを討論で破ったと読んだ。しかも惨敗させたという。無神論者たちがそう言っていた。そこで私は、すぐにBloggingheadsの人々に連絡して、討論を組めないか尋ねた。自分を試す相手にしたいと思ったのだ。また、その人の過去の討論をヒッチェンズは見て準備すべきだった、とも言われていたので、私はあえてそうしないと決めた。ほとんど何にでも即興で対処できるはずだと思っており、それが正しいかを知りたいからだ。確かめるために、人前で恥をかく危険を引き受ける。これは古典的な意味での自己ハンディキャッピングではないことに注意してほしい。もし討論が本当に実現し(返事はまだ来ていない)、準備せず失敗したなら、自分について賭けたものを失い、自分の限界について情報を得る。そのとき、負けた言い訳だと自分が考えるものは、何一つ用意していない。
もちろん、この考え方は、本当に自分を試すためだけに挑戦しており、どんな代償を払ってでも勝たなければならないわけではない場合に限る。後者の場合は、自分にできるだけ有利にすべきだ。そうしないのは、3歳児と三目並べをしている場合でさえ、途方もない過信になる。
もっと気づきにくい自信不足は、前に進む勢いを失うことだ。人間が犯す数々の誤り、以前の自分が犯していた誤り、そして今も一部は犯しているだろう誤りに気づいていく中で。臆病になり、自分に問いを向けても、その問いに答えて先へ進まない。自分には無理だという仮説を立てても、その仮説を検証しない。
ある試みに対して、意図的に、自分にも見える形で挑まないと決める、そんな決定的な瞬間は一度もないかもしれない。それでも、ただ……だんだん……遅く……なる……。
ほかにまだ12もの間違いが残るのに、一つを直そうとし続けても、もう価値がないように思える……。
懸命に挑むよう奮い立たせるだけの、勝利への希望がない……。
新しいことをしようと考えると、自分の能力についての疑問が12もいっせいに浮かぶ。そして、自分を試すことで、その疑問に答えられるとは思いもしない……。
人間の欠点について、あまりに多くの知恵を読んできたので、賢明な道とは、いつも疑うこと(決して疑いを解決しないこと)、いつも拒否する謙虚さ(決して準備する謙虚さではないこと)、そして総じて、人間の能力についてますます悪く言い、悪い気分になることでよい気分になる冷笑主義へ進むことのように思えてくる。
だから最後の助言は、問題を見る別の視点、これから取り入れるかもしれない思考習慣を判断する視点だ。こう問うてみよう。
この考え方は、自分を強くするのか、弱くするのか? 本当に、心底そうなのか?
私は以前、もっともらしさの危険を語った。ニューカム問題では二つの箱を取るべきだというもっともらしい議論。帰納の問題のせいで何も知りえないという、もっともらしい議論。いつも多数派の信念を採用すれば、平均すればうまくいくという、もっともらしい議論。そのほか、道を妨げるものだ。別の視点を得るには、「それは勝つのか?」と問うことができる。少し違う視点としては、「この考え方は自分を強くするのか、弱くするのか?」と問える。絶えず自分にすべてを疑えと言い聞かせるのは、強くするのか、弱くするのか? その疑いを決して解決せず、減らしもしないのは? 不確かさを前に、意図的な信念の危機を経験するのは? 反論されるたびに、自らの誤りやすさを謙虚に告白して済ませるのは、強くするのか、弱くするのか?
過信している可能性を補おうとする今の試みは、自分を強くしているのか、弱くしているのか? ヒントを挙げよう。予防策を増やし、もっと入念に自分を試そうとし、友人に助言を求め、大きなことへ段階的に進み、今も失敗はするが以前より減っているなら、おそらく強くなっている。決して失敗せず、挑戦を避け、全体に希望を失って意気消沈しているなら、おそらく弱くなっている。
この規則の最初の形を学んだのは、かなり幼いころだった。ある数学の試験の練習をしていて、練習問題を解くたびに点が下がっていた。答案を見直すと、正しい答えを鉛筆で書いてから消していたことに気づいた。そこで「よし、今度はフォースを使って、直感に従おう」と思った。すると点数は最初よりも高く跳ね上がり、本番ではさらに高かった。こうして、自分を疑うことはいつも自分を強くするわけではないと学んだ。とりわけ、数学的な直感のような、よい情報によって判断を動かす能力を妨げるならば。(ただし、それを教えてくれたのは、確かに試験だった!)
自信不足は、合理主義者だけの罪ではない。だが、合理的であろうとする試みが導きうる、特有の危険だ。そしてそれは、立ち止まらせる誤りである。その誤りを正してくれるはずの、さらなる経験を得ることを妨げる誤りなのだ。
私が会う、合理主義者を目指す人々には、自信不足が実際にかなりよく見られるからこそ――有名な模範となった合理主義者では、それより少ないが――、これを合理主義者につきまとう三大罪の第三に挙げたい。