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哲学、フィクション、宗教で描かれてきたあらゆるユートピアは、多かれ少なかれ、実際には住みたくない場所だった。この重要な観察をしたのは私だけではない。ジョージ・オーウェルも「なぜ社会主義者は楽しさを信じないのか」で、ほぼ同じことを言っているし、それ以前にも多くの人が言っただろう。
文章の書き方の本を読むと、物語には「葛藤」が必要だと教えられる。書き方の本は山ほどある。驚くことに、本を書く人の多くは、書くことについて何か知っていると思っているからだ。
つまり、物語には「葛藤」があると教えるのは、比較的生ぬるい指南書だ。もっとはっきり言う作家もいる。
「物語とは、人々の痛みを描くものだ」。オースン・スコット・カード。
「すべての場面は、惨事で終わらなければならない」。ジャック・ビッカム。
若く愚かだったころ、私は、作家は真によい理想郷、エウトピアを探す仕事を免除されるのが当然だと思っていた。欠陥のないユートピアを作ったら、そこを舞台にどんな物語を書けるだろう。「昔々、みんなはいつまでも幸せに暮らしました」。よい知能爆発をSF作家が描こうとして、何になるだろう。よい知能爆発とは……。
……あらゆる物語の終わりなのだから。
ユートピアという文学上の問題を考えるには、妥当な枠組みに思えた。しかし、その最後の結論の何かが、静かな、しつこい疑いを生んでいた。
当時、私はAIを、個人が使う、安全に願いをかなえる魔神のようなものと考えていた。だから、ある意味で結論は筋が通っていた。問題があれば、願って消せばよいのだろう? ゆえに、物語はない。私はその静かな疑いを無視した。
ずっと後、安全な魔神でもそれほどよい考えではないと結論してから、振り返ってみると、「物語がない」ことも有用な兆候だったかもしれないと思えた。この場合、「この状況について読みたい物語が一つも思いつかない」は、「この状況で実際に暮らしたくない」理由へ導いてくれたかもしれない。
そこで私は、技術排斥や神義論への染みついた嫌悪を飲み込み、少なくとも次の議論を考えてみた。
- 何も悪くならず、誰も痛みや悲しみを経験しない世界には、読む価値のある物語がない。
- 読みたくない世界は、住みたくない世界だ。
- したがって、よく生きられる人生にも、少しは痛みが降りかからなければならない。証明終わり。
ある意味では、人間の作家がこれまで書いた大半の物語のような人生を、私たちは送りたくないのは明らかだ。ジャンルの中でも最高の中の最高として伝説になった、本当に偉大な物語を考えよう。『イリアス』、『ロミオとジュリエット』、『ゴッドファーザー』、『ウォッチメン』、『プレーンスケープ:トーメント』、『バフィー~恋する十字架~』の第2シーズン、あるいは『月姫』のあの結末。この中に、悲劇でないものが一つでもあるだろうか。
普段は、痛みより快楽を、悲しみより喜びを、死より生を好む。それなのに、傷つき、悲しみ、死ぬ登場人物に共感したがるようだ。あるいは、幸せな人の物語は深刻ではなく、称賛に値するほど芸術的に偉大ではないのか。だがそれなら、なぜ不幸な人のいる物語ばかり称賛するのだろう。何か隠れた利益があるのか。どちらから見ても謎だ。
子どものころ、私は小説が書けなかった。現実でもうまくいってほしかったのと同じように、登場人物にも物事がうまくいくように書いていたからだ。オースン・スコット・カードがそれを直してくれた。ああ、間違っていたのはここか。登場人物が傷ついていなかったんだ、とわかった。それでも、筋書きの細部も同じ仕組みだとは気づかなかった。ジャック・ビッカムが、すべての場面は惨事で終わるべきだと言うまでは。私は問題を設定して、悪化させるのではなく、解決しようとしていたのだ……。
物語は、現実の人生と同じように最適化するものではない。最良の物語と最良の人生は、別の基準から生まれる。
現実では、かなり長いあいだ大きな災難なしに生きても、そこそこうまくやれるようだ。最後に暗殺者に撃たれたのはいつだろう。ずいぶん前ではないか? そのせいで人生が空しく感じられるだろうか。
だが、一方で……。
奇妙なことに、作家は年を取りすぎたり成功しすぎたりすると、私の子ども時代に戻る。物語がうまく運ぶようになるのだ。登場人物にひどいことをしなくなり、その結果、読者にひどいことをし始める。どうやら老大家症候群のお決まりの症状らしい。メルセデス・ラッキー、ローレル・K・ハミルトン、ロバート・ハインライン、あのオースン・スコット・カードまで、みんなそうなった。登場人物を傷つける方法を忘れたのだ。理由はわからない。
老大家や、まったくの初心者が書いた、物事が次々と容赦なくうまくいく物語を読むとき。主人公が指を鳴らすだけで大悪党を倒したり、さらにひどくは、最後の戦いの前に大悪党が降参して謝り、また友達に戻ったりするとき――。
背骨の付け根で、爪が黒板を引っかくような感覚がする。そんな話を読んだことも、もっと悪いことに、書いたこともないなら、運がよかったと思うといい。
雨が一滴も降らないような現実の人生を生きてみたら、その爪で引っかく感じは、物語から現実へも移るのだろうか。
一つの答えは、物語に本当に必要なのは「惨事」「痛み」「葛藤」ですらなく、単に努力して挑むことなのかもしれない。メアリー・スー的な物語の問題は、挑戦が足りないことであって、実際には痛みは必要ないのかもしれない。これは、おそらく検証できる。
別の答えとしては、私たちが話しているのは確かに、トランスヒューマニスト版の楽しさ理論なのだ、というものがある。ならば、その不快な感覚を残す正当な理由がない限り、「脳を改変して、爪で黒板を引っかく感じを消す」と答えられる。ユートピアを妨げる、無意味で偶然のバグなら、削除すればよい。
そうするべきなのかもしれない。偉大な物語がみな悲劇なのは……そうだな……。
BDSMの共同体では、「強烈な感覚」が痛みの婉曲表現だと読んだことがある。それを読んで、今の人間の作りでは、快楽より痛みを生むほうが単に簡単なのだと思った。ここは自分の経験の範囲を少し超える話だが、睾丸を一度強く蹴られた痛みと同じくらい強烈なよい感覚を生むには、才能と経験のある性の達人が、何時間もかける必要があるだろう。痛みのほうなら、初心者にも数秒でできる。
魔女とされた人々の告白を聞いた、司祭で初期の合理主義者でもあるフリードリヒ・シュペー・フォン・ランゲンフェルトの生涯を調べたとき、私は告白を引き出すために使われた道具もいくつか調べた。あの道具が生む痛みと同じ強さで、人を気持ちよくする普通の方法はない。薬物でもできるかどうか、わからない。もっとも、薬物の経験も拷問の経験も、私にはまったくないが。
そこには、何か釣り合わないものがある。
確かに、人間は計画するとき楽観的すぎる。今の作りのままで、損失への嫌悪が利得の喜びより強くなければ、破産してしまうだろう。実験による目安では、50ドルでもマグカップでも、望ましいものを失う苦痛は、同じものを得る喜びの2~2.5倍だ。
だが、ここでの不均衡はもっと深い。セックスと拷問の、注ぐ労力に対して得られる強さの比率の違いは、たった2倍ではない。
今の人間の作りで、この世界で強い感覚を求めれば、経験全体の強烈さの源として、快楽に痛みを混ぜるようになるのは驚くことではない。
人が違う作りだったら。痛みと同じくらい強く、同じくらい多彩な快楽を生み出せたら! 異端審問の拷問者と同じ工夫と努力で、その犠牲者が苦しんだのと同じほど、人を気持ちよくできたなら――。
だが、それほどの心地よさに相当する快楽とは、何なのだろう。巧みな拷問を受けた人は、痛みを止めるため、繰り返されないためなら、何でもする。同等の快楽とは、続けろ、繰り返せという要求が、すべてに優先するものなのか。より強い意志でその快楽に耐えられるなら、それは本当に同じ快楽なのか。
書き方の別の規則に、物語は叫ばなければならないというものがある。印刷された文字と、人間の脳は遠く隔たっている。少しでも影響を与えるには、出来事も感情も、自然な音量の十倍で起きる必要がある。登場人物を現実的に行動させ、感じさせようとしてはいけない。特に、自分の過去の経験を忠実に再現してはいけない。誇張しなければ、静かすぎて紙の上から立ち上がらないからだ。
偉大な物語がみな悲劇なのは、人間の読者に届くほど大きく、幸福は叫べないからかもしれない。
直すべきなのは、そこかもしれない。
そして、そこを直したなら……痛みや悲しみに、まだ使い道はあるのだろうか。すべてが可能な限りよくなり、直せる悪はすべて直されたあとにも、悲しみの記憶にすら、意味はあるのか。
痛みを、ただ丸ごと削除することはできるのか。それとも、効用関数の古い下限を取り除くと、新しい下限ができるだけなのか。1000万ヘドン未満の快楽はすべて、新たな耐えがたい痛みになるのだろうか。
今の作りの人間には、快楽の尺度を調整する傾向があるようだ。飢えた記憶のある人は、ケーキしか知らない人より、一斤のパンをありがたく思うだろう。文学でも現実でもユートピアが不可能だとするオーウェルの仮説は、これだった。1
人間は、対比以外の形では幸福を描写できず、おそらく想像もできないようだ……。努力や苦痛からの解放という形以外に幸福を想像できないことは、社会主義者に深刻な問題を突きつける。ディケンズは、貧しい一家がガチョウの丸焼きにかぶりつく姿を描き、幸せそうに見せられる。一方、完璧な世界の住人には、自然に湧く陽気さがないようで、そのうえ、たいてい少し不快でもある。
期待効用最大化者にとって、すべての結果に1兆を足すよう効用関数の尺度を変えるのは無意味だ。数学的対象としては、文字どおり同じ効用関数である。効用関数が記述するのは、結果どうしの相対的な隔たりだ。数学的には、そういうものなのだ。
だが人間の脳には、正のフィードバックと負のフィードバックの別々の神経回路があり、それぞれにも異なる種類がある。現に、痛みがまったくない先天性無痛症を「患っている」人がいる。そうした人にとって、快楽が足りないことが耐えがたくなる、という話は聞いたことがない。
先天性無痛症の人は、切り傷や指のやけどがないか、頻繁に、注意深く自分を調べなければならない。痛みは、人間の心の設計において役割を果たしている……。
だが、それは同じ役割を果たせる代替手段がないことを示さない。痛みを消し、その耐えがたい主観的な感触を持たない、ある行為をしないようにする衝動に置き換えられるだろうか。ここで働く法則をすべて知っているわけではないが、おそらくできると推測する。自分のその部分を、期待効用最大化者にもっと近いものへ置き換えられるはずだ。
快楽の尺度を調整する人間の傾向を、慣れを、消し去り、ガチョウの丸焼きを毎回、前と同じくらい楽しめるようにできるだろうか。できるだろうと思う。これは、共感と並んで絶対に欠かせない退屈を消すことに、危険なほど近づく。だが、昔からの解決策が同じくらい楽しいままだと言うことは、新しく、もっとよい解決策を探す衝動を失うと言うことではない。
一度も飢えたことがなくても、ガチョウの丸焼きを毎回、飢えと比べたときと同じくらい楽しいものにできるだろうか。
目に入った塵よりひどいものを、文字どおり一度も経験していないとしても、その痛みが新しい拷問になるのを防げるだろうか。
このあたりの問いは、法則についての私の理解を超え始める。しかし答えは、そう、できるのだろうと推測する。この種のことでは、法則を学んでしまえば、奇妙に見えることも、たいてい実現方法がわかるというのが私の経験だ。
私の知る限り、あるいは推測できる限り、デイヴィッド・ピアースの『快楽主義的要請』の次の主張は、実現可能性の部分については、かなり高い確率で正しい。2
ナノテクノロジーと遺伝子工学は、感覚あるすべての生命から苦しみをなくすだろう。苦痛廃絶の計画はきわめて野心的だが、技術的に実現可能だ。また、手段として合理的であり、道徳的に急務でもある。痛みや不調の代謝経路が進化したのは、祖先の環境で遺伝子の適応度に役立ったからだ。それらは、別種の神経構造、遺伝する至福の勾配に基づく動機づけシステムへ置き換わるだろう。崇高な幸福の状態が、遺伝的にあらかじめ組み込まれた精神的健康の標準になる運命にある。世界で最後の不快な経験は、正確な日時を指定できる出来事になると予測される。
それが……私たちの望みなのだろうか。
最後の涙を拭い去って、それで終わりにすることが。
現状維持バイアスと、使い古した正当化をいくつか除いて、それをしないよい理由はあるのか。
別の選択肢は何だろう。ほかにどんな道がある?
今のままにする? もちろん違う。この世界は神が設計したものではない。どの側面でも、ちょうど最適だと考える理由はない。痛みが多すぎないなら、少なすぎるはずだが、後者はありそうにない。
しかし、ひょっとすると……。
痛みのうち、耐えがたい部分だけを切り取ることはできないか。
異端審問はなくす。火に指を入れてはいけないと教える痛み、友達の指を火に入れるべきではなかったと教える痛み、あるいは恋人との別れの痛みさえ、残しておく。
心をすり減らして壊す種類の痛みをなくす。あるいは、傷つきにくい心にする。
脚が折れたり、心が折れるほど失恋したりしても、人そのものは壊れない世界はありうる。新たな加害者を生む児童への性的虐待はない。疲労や、単調で小さな不便の積み重ねにすり減り、自殺を考える人はいない。飢餓やエイズのような、偶然で、無意味で、終わりのない悲しみはない。
それでも、脚の骨折さえ怖すぎるというなら――。
もっと強くなり、日々の生活ですでに余力を使い果たしていなければ、痛みをそれほど恐れなくなるだろうか。
これがピアースの世界への代案の一つだ。ほかにもあるとしても、私は詳しくは考えていない。
勇気の道、と呼べるかもしれない。人を壊す痛みをなくし、人を強くすれば、残るものはそれほど怖くないはずだ、という考えだ。
悲しみはあるが、夜のニュースで見るような、大規模で、系統的で、無意味な悲しみはない世界。痛みを消さないとしても、少なくとも快楽を上回ることはない世界。その世界の物語は書けるし、そこに住む人たちも、私たちの物語を読めるだろう。
人間性の大きな部分を削除する考えには、私はかなり保守的になりがちだ。釣り合い、せめぎ合い、動くその構造が、期待快楽最大化者のような単純なものに崩れるまでに、どれほど大きな部分を削れるのか、わからない。
だから、私が惹かれるのは勇気の道だと認める。
とはいえ、両方を生きて比べたわけではない。
無痛郷のように大きく違う世界が、単に怖いのかもしれない。「勇気の道」を選ぶ理由としては、皮肉ではないか。
勇気の道は、単に変化が小さく見えるだけかもしれない。もっと大きな隔たりを越えて共感するのが、苦手なだけかもしれない。
だが、「変化」の基準は動く。
人間の子どもが、もっと痛みの少ない世界で育ったなら。エイズ、がん、奴隷制のある世界に生きたことがなく、それらを勝ち誇って取り除いた悪としては知らず、だから「もうやり終えた」とも「世界はもう十分に変わった」とも思わないなら――。
その子は次の一歩を踏み出し、恋人から愛されなくなったときの、失恋の耐えがたい痛みも消そうとするだろうか。
そのあとは? 『ロミオとジュリエット』がますます関係のない、遠く忘れられた世界の遺物に見えてくる時点はあるのか。人間を超える旅のどこかで、負の強化の回路全体が、目覚めて抜け出すべき無意味な二日酔いにしか見えなくなるのか。
そうなら、その最後の一歩を遅らせる意味はあるのか。それとも、恐れを捨てて……恐れそのものを捨てるべきなのか。
わからない。
George Orwell, “Why Socialists Don’t Believe in Fun,” Tribune (December 1943). ↩︎
David Pearce, The Hedonistic Imperative, http://www.hedweb.com/, 1995. ↩︎