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両親はいつも、知能の価値を低く見せようとしていた。その代わりに何を重んじたのか。最近の研究が勧めるように、努力だろうか。いや、努力ではない。経験だ。賢い子どもを叩き伏せるには、実に都合がいい。子どもにはどうしても手が届かない金槌なのだから。たとえば私がユダヤ教に疑問を呈したときも、両親はそう言った。論拠を並べてみると、だいたい次のように言われた。「論理には限界がある。大人になれば、大事なのは経験だとわかる。そのときにはユダヤ教が真実だとわかるよ」。私は二度と試さなかった。学校でも一度、ユダヤ教を疑問視してみて、叩き伏せられ、二度と試さなかった。私は昔から、学習が遅いほうではない。
両親が賢明とはいえないことをしているときは、いつもこうだった。「私たちのほうが経験があるから、よくわかっている。大人になればわかるよ。成熟や知恵は、知能より大切なんだ」
これが、若いエリエザーを知能至上主義へ向かわせる試みだったのなら、私が聞いた中で最も見事に成功した、逆手を取った心理作戦である。
しかし、両親はそこまで策略家ではないし、結果も決してよいものではなかった。
私は長いあいだ、この話の教訓は、経験など、生まれ持ったむき出しの知能にはかなわないということだと思っていた。ずっと後、20代になってから振り返って初めて、脳がまだ十分に発達していない思春期前の自分が、両親より知的だったはずはないと気づいた。すでにほぼ完全な無神論者になっていた11歳のとき、公平な知力勝負なら、私は両親に勝てなかったはずだ。SATの点数は11歳としては高かったが、十分大人になった両親の点数にはかなわなかっただろう。公平な戦いなら、両親の知能と経験は、思春期前の子どもなど誰でも叩きのめせた。彼らの足をすくったのは、知能があっても合理的に考えられないこと、ディスラショナリアだった。知能を、その知能自身を打ち負かすためにしか使わなかったのだ。
しかし、その理解が得られたのは、私の知能が、さらに何年もの経験を処理して抽出した、ずっと後のことだった。
若いころに導き出した教訓は、知能の価値を低く見る人は、知能をまったく理解していないということだった。自分の知能は、人生にも心にも性格にも、あらゆる面で影響していた。振り返れば、それは圧倒的に明らかだった。「知能は、知恵や善い人間であることとは関係ない」。では、自己認識も知恵や善い人間であることとは関係ないのか? 自分をモデル化するには知能が要る。そもそも、進化心理学を学べるだけの知能が必要なのだ。
私たちは、配られた札そのものであり、知能はその中でも最も不公平な札だ。富や健康、生まれた国よりも不公平で、幸福の基準値よりも不公平だ。人生がそこまで不公平だと受け入れるのは難しい。楽しい考えではないからだ。「知能はXほど重要ではない」と言うのは、その不公平から目をそらし、向き合うのを拒み、代わりにもっと幸せなことを考える方法の一つだ。悪い札を配られた人にも、よい札を配られた人にも、その誘惑がある。お金の重要性を軽く見る誘惑が、貧しい人にも裕福な人にもあるのと同じだ。
だが若いエリエザーは、トランスヒューマニストだった。IQの点数を人に分けるには、単に余分なお金を持って生まれた場合より手間がかかる。しかし、解決可能な問題であり、正面から向き合って解決すべきだった。たとえ一生を費やしても。「強者は弱者に奉仕するために存在する」と若いエリエザーは書いた。「そして、他者を自分と同じくらい強くすることでしか、その義務を果たせない」。私はSFに見られるランド的、ニーチェ的な傾向に腹を立てていた。そして、お察しのとおり、若いエリエザーには反対方向へ行きすぎる癖があった。誰も、ただ奉仕するためだけに存在するわけではない。それでも私は努力したし、後悔していない。それを十代の愚かさと呼ぶなら、大人の知恵がそれ以上のことをしている例など、めったに見ない。
誰もが、もっと知能を必要としていた。自分も含めて、と忘れず明言した。自分を頂点とする新世界秩序を唱えるなど、とんでもない。そんなことをするのは、ありきたりなSFの悪役か、もっと悪いことに、よくいる十代の若者だ。自分がそんな陳腐な存在になることは、決して許せなかった。そうではなく、みんながもっと賢くなる必要がある。私たちは同じ船に乗っている。立派で、気持ちの高まる考えだ。
エリエザー1995は、SFを読んでいた。道徳も倫理も持ち、あからさまな罠なら見抜けた。ホモ・ノヴィス(新人類)をめぐる長広舌など振るわない。自分と他人の間に線を引かない。自分を頂点に置くための精巧な哲学など作らない。そんな失敗の仕方は、あまりに見え透いていた。そう、彼は自分も愚かだと慎重に言い添え、道徳的な優越を決して主張しなかった。今の私の見方も、それほど違わない。ただし、自分の倫理をあれほど大げさに演出することは、もうない。(あるいは、自分を褒めてよい場面の基準を厳しくした、と言うほうが正確かもしれない。)
こんなことを並べるのは、エリエザー1995は、明白な形で失敗するほど、みっともない人間ではなかったと強調するためだ。
そしてエリエザー1996は、知能爆発という概念に出会った。雷に打たれるような啓示だったのか? 椅子から飛び上がって「エウリスコ!」と叫んだのか? いや。そこまで芝居がかってはいなかった。ただ、考えてみれば、人間を超える知能が、単なる物質科学のどれよりも根本的に未来を変えることは、圧倒的に明らかだった。そして私は、知能爆発を起こすことこそ、残りの人生をかけてやることだと、すぐにわかった。11歳のころ考えていたナノテクノロジーではない。ナノテクノロジーは、知能が生み出す道具にすぎない。それどころか、知能は以前に思っていたよりもさらに強力で、さらに大きな恵みだったのだ。
これは幸福な死の螺旋だったのか? 後でわかったことだが、そうだった。つまり、知能について、誤っていても心地よい信念を受け入れることにつながったのだ。超知能にとって光速の限界など障害になるはずがない、と信じ始めた時点に、境目を引けるかもしれない。
(それ以来、知能への見方がどう変わったかというと……そうだな。今では、人間に配られた悪い札を考えると、まず死と老いが浮かぶ。誰もが何らかの知能水準を持つのは避けられない。楽しさ理論の観点から重要なのは、今のように下がるのではなく、時とともに上がるべきだということだ。気分をよくする、気の利いた考え方ではないだろうか。ただ、今は自分の知能を低く見せようと、それほど懸命にはならない。それも結局、知能に注目を集める別のやり方だからだ。話題になれば、私は人間としては賢い。そしてそれについて何を感じるかは、私自身の問題だ。
知能が世界を持ち上げる梃子だという部分は変わらない。ただ、私にとって知能の謎めいたところは減り、物理法則の中に組み込まれたものとして、よりはっきり見えるようになった。本当の物理法則がたまたま許すなら、超知能は光速を超えて進めるかもしれない。許さないなら、進めない。それは考えられないことではないが、私は賭ける気にはならない。)
しかし、本当の間違った曲がり角は、その後に来た。誰かがこう言ったときだ。「ねえ、超知能が道徳的になると、どうしてわかるんだい? 知能は善い人間であることとは関係ないよ。それは知恵と呼ぶものだ、若い神童くん」
すると見よ、若いエリエザーには、それが単なる否認にすぎないことが明白に思えた。確かに、苦心して作った自分の倫理規範は、知能を使い、知能を土台として組み立てたものだった。知能が倫理、道徳、知恵と大いに関係していることなど、誰にでもわかる。チンパンジーに囚人のジレンマを説明してみればいい。そうだろう?
だとすれば、超知能は必然的に超道徳性を伴うに決まっている。
こう言われるゆえんである。「親は、子どもにするなと言うことを全部する。だから、それをしてはいけないと知っているのだ」