非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

量子の非実在論

Quantum Non-Realism

❦

誰も見ていないときにも、月は存在するのか。

量子力学の理論を、これから組み立て始めたところだとしよう。

どれほど詳しく観察するかによって結果が変わる実験に、出会い始める。知っていた現実の下を掘り進むと、結果の相対頻度しか与えない、極めて精密な数学的記述が見つかる。しかも複素数でできている。物は月曜日には粒子、火曜日には波のように振る舞う。

正しい答えは、仮説としてまだ利用できない。それが発明されるのは30年後だからだ。

こんな混乱の中で、理論上できる最善のことは何だろうか。

最善なのは、量子力学の厳密な「黙って計算しろ」解釈だ。最善を尽くすとは諦めることではないので、新しい理論を作ろうとはし続ける。だが、正しい答えは30年間利用できないと設定したのだから、新しい理論はどれも本当にはよくない。理論上できる最善のことをするとは、仮説を検証する方法を探しながら、その点も認識することだろう。

理論上できる最善のことに、「波動関数は確実なことではなく確率しか与えない」と言うことは含まれない。振り返れば、それは結論への飛躍だった。波動関数は、多数の世界が存在するという確実性を与える。だから、波動関数は確率にすぎないという部分は、少し違っていた。計算はしたが、黙ってはいなかったのだ。

正しい答えが利用できない中で最善を尽くせば、デコヒーレンスを聞いたとき、それに矛盾することを何一つ言っていなかったとわかるはずだ。デコヒーレンスは、データと計算に排除されていない。だから、データと計算によって強いられない命題を、確かな知識として肯定しないなら、計算がデコヒーレンスと矛盾することを言うよう強いるはずもない。正しい理論がデコヒーレンスでなく別のものであっても同じだ。道を誤るなら、それは自分の衝動のせいに違いない。

だが人間には、黙って計算すること、本当に黙って計算することは難しい。無知を、確かな知識であるかのように扱いたくなる傾向が、圧倒的に強いのだ。

こんな会話が実際にあったかは知らない。だが、無知が知識になるのは、こういうことだ。

ギャラント:「黙って計算しろ」。

グーファス:「なぜ?」

ギャラント:「この方程式が何を意味するかわからないからだ。うまくいくらしいとしかわからない」。

――五分後――

グーファス:「黙って計算しろ」。

学生:「なぜですか?」

グーファス:「この方程式は何も意味しないからだ。ただうまくいくだけだ」。

学生:「本当ですか? どうしてわかるんです?」

グーファス:「ギャラントがそう言った」。

次の飛躍でも、同じような変化が起きる。

ギャラント:「この光子が吸収される振幅を計算すると、(−1/3)iになった。実験では1,000回中107回ほど吸収され、絶対値の二乗である1/9によく合う。実験の統計と振幅の絶対値の二乗には、明らかに何か関係がある。だが、それが何かはわからない」。

グーファス:「確率振幅が示すのは、電子がどこにあるかではなく、どこにありうるかだ。絶対値の二乗は、現実がそうなる確率だ。現実そのものが、本質的に非決定論的なのだ」。

さらに、こうだ。

ギャラント:「何かを測定して実験結果を得たら、それ以降の計算には、その結果の頻度を計算するのに絶対値の二乗を使った振幅だけを用いる。この規則によってのみ、その後の計算が観察頻度と一致する」。

グーファス:「振幅が確率なのだから、実験結果がわかれば、他のすべての確率はゼロになる!」

次のように滑り落ちていったことは――

この「振幅」というものの二乗は、実験で観察する頻度と密接に対応する

から、

振幅は、その測定結果を得る確率である

そして、

ならば、その測定結果が得られなかったとわかれば、その確率がゼロになるのは当然だ

――科学史上、最も恥ずかしい誤った曲がり角の一つに違いない。

これをすべて文字どおりに受け取れば、意識が波動関数の収縮を起こすという量子力学の解釈になる。今では、その解釈を実際に信じていると認める人はほとんどいない――。

だが、物理の教科書はいまだにそう書かれている! 信じないと言いながら、矛盾する「確率」振幅を取り除くのは知識の働きであるかのように語るのだ。

それでも、意識が収縮を起こすという説は、私にはどれほどありそうにないと思えても、少なくとも現実の姿を示してはいる。確かに形式化されていない。確かに心的性質を存在論的に基本的なものとする。「実験的観察」がいつ起きるか、人が何を「知る」かは計算できず、ある確率が明らかにゼロになる時点を、ただ知っているだけだ。そして、その「ただ知っている」が、どんな実験結果にもたまたま合う――。

――それでも少なくとも、宇宙がどう働くかを語ると主張している。振幅は実在し、収縮は実在し、意識も実在する。

これを、次の議論の型と比べてほしい。

学生:「待ってください。測定で真でないとわかった途端、この振幅は消えると言うんですか?」

グーファス:「いやいや! 文字どおり消えるわけではない。方程式には意味などなく、よい予測を与えるだけだ」。

学生:「では、何が起こるんです?」

グーファス:(もごもご。シーッ。)「その問いは決してするな」。

学生:「では、こちらの光子の偏光を測ると、1光年離れた、もつれた光子の縦方向の偏光の確率が50%から25%に変わることはどうですか?」

グーファス:「それがどうした?」

学生:「特殊相対性理論に反しませんか?」

グーファス:「反しない。他方の光子の偏光がわかっただけだからだ。思い出せ。振幅は実在しない」。

学生:「でもベルの定理は、測定前の他方の光子の偏光を記述する局所的な隠れた変数は、ありえないと示していて――」

グーファス:「そのとおり! 測定前の光子の偏光を論じるのは無意味だ」。

学生:「でも確率が突然変わる――」

グーファス:「測る前に論じるのは無意味なのだ!」

ここでグーファスは、そもそも何を意味しているのか。もっともらしさは置いておこう。その発言が真であることに対応する現実の状態とは、どんなものか。

影響される性質は存在しないが、その変化は計算できる。だから特殊相対性理論への違反を論じるのは無意味だ。現実がどんなふうになっていたら、そうなるのか。

だが、そんなことはいったん忘れよう。もっと重要な問いの答えを知りたい。

グーファスは、こうした話をいったいどこから得たのか。

シュレーディンガー方程式について、次のことを確かな事実として主張するとしよう。

この方程式はよい予測を生むが、何も意味しない!

本当に? どうしてわかるのか?

私はときどき、合理性の根本の問いは、なぜ、信じていることを信じるのかだ、と言っている。

シュレーディンガー方程式は「何も意味しない」とあなたは言う。その確かな知識は、どうやって手に入ったのか。単に無知を知識と取り違えているのでないなら。

何かの実験でわかったのか。実験によって、哲学的には不可能に思えることがわかる可能性は認める。だがこの場合には、決定的なデータを見せてほしい。注意深く実験装置を組み、(1)シュレーディンガー方程式に意味がある場合、(2)意味がない場合に、それぞれ何が見えるはずかを考え、その結果(2)を得たことがあったのか。

ギャラント:「光子の90◦の偏光を測り、次に45◦の偏光を測り、もう一度90◦を測った。私の実験記録では、100試行で光子は47回吸収され、53回透過した」。

グーファス:「90◦と45◦の偏光は両立しない性質だ。同時には存在できず、一方を測ったら他方について語るのは無意味だ」。

どうしてわかるのか。

その知識をどうやって得たのだ、グーファス。ギャラントが自分の知識をどこから得たかはわかる。だが、君の知識はどこから来た?

存在や意味の問いに対する私の姿勢は、宇宙は空間的に有限か無限かについての現在の証拠を論じた際、よく表れていた。その議論でジェームズ・D・ミラーが、ロビン・ハンソンをたしなめた。

ロビン、宇宙が存在すると仮定するのは自信過剰バイアスだ。宇宙の大きさがゼロである可能性も、確かにあるはずだ。

私はこう答えた。

ジェームズ、宇宙が存在しなくても、存在しないのが無限の宇宙なのか有限の宇宙なのか、わかるといいね。

はは! 昔ながらの「宇宙は存在しない」という手で、私を止められると思うのか。足を鈍らせることさえできないぞ!

宇宙が存在しない可能性を排除しているわけではない。たとえ何も存在しなくても、その無をできるだけ理解したいのだ。現実がないからといって、私の好奇心が急に消えるわけではない!

「現実」の本性については、いまも混乱している。だからそんなものは存在しない可能性も残る。だが、それでもイーガンの法則は成り立つ。「すべてを合わせれば、いつもどおりの世界になる」。アインシュタインがニュートンの重力理論を反証しても、リンゴは落ちなくなったりしなかった。

確かに、話が落ち着いたときには、リンゴも地球も現実も存在しないとわかるかもしれない。だが、存在しないリンゴは、存在しない地面に向かって、無意味な9.8 m/s2という割合で落ち続けるだろう。

宇宙は存在しないと言うのか。いいだろう、信じたとしよう。もっとも、言葉を繰り返すほかに、何を信じればよいかは明らかでないが。

さて、このボタンを押すとどうなる?

「単純な真実」で、私はこう言った。

正直なところ、この「現実」という話がどこから来るのか、私にも完全にはわからない。実験室で自分の現実を作れないのだから、まだ理解していないのだろう。だが、ときには、あることが起きると強く信じているのに、代わりに別のことが起きる……。だから、予測を決めるものと、実験結果を決めるものとには、別の名前が必要だ。前者を「信念」、後者を「現実」と呼ぶことにする。

量子力学の方程式は「実在しない」と言いたいのか。好意的に、それには何か意味があるとしよう。どんな意味なのだろう。

もしかすると、私の予測を決める方程式と、実験結果を決めるものとは、実質的に違うということかもしれない。では実験結果を決めるのは何なのか。「何もない」と言うなら、それはどんな「無」で、なぜその「無」が、たとえば電子の質量の実験的測定値を決めるときに、これほど規則的に見えるのか知りたい。

質問をやめろと言われるのは好きではない。あることは確実に無意味だと言うなら、それで正確に何を意味しているのか、どうして知ったのかを知りたい。そうでなければ、答えをくれたのではなく、問いをやめろと言っただけだ。

「単純な真実」は、小石を桶に入れることで羊を数える方法を見つけた、羊飼いと弟子の暮らしを描く。そこへ「魔法の小石」の仕組みを知りたがる宮廷の使者が来る。羊飼いは「空の桶に魔法があるのは、牧草地にも羊がいないとき、そしてそのときに限る」と説明しようとする。だがすぐに、どうやって小石に魔法が入るのかをめぐる弟子と使者の熱い議論に、置き去りにされる。

ここには、実験について優れた予測を与える量子方程式がある。それが「無意味」とは、正確には何なのか。羊を数えるのに役立つが、魔法は一切ない小石の桶のようなものか。

ベルの定理が局所的な隠れた変数を排除する前は、アインシュタインが考えたように、私たちの持たない、もっと完全な現実の記述があり、量子論はその不完全な知識を要約している可能性があった。学んだ法則は、統計力学の法則のように、不確実性の量的な記述になるはずだった。だからといって方程式は「無意味」にはならない。部分的な知識こそ、確率の意味なのだ。

だがベルの定理によって、量子方程式が、古典物理の上にある統計力学と同じように、決定論的なものの部分的な知識だという考えは、ずっともっともらしくなくなる。それでも、量子方程式は普通に言う意味で「無意味」にはならない。「統計的」「近似的」「部分的な情報」、最悪でも「誤り」だろう。

ここに優れた予測を与える方程式がある。あなたは「無意味」だと言う。では何が実験結果を決めるのかと聞くと、答えられない。いいだろう。ならば、量子方程式がこれほどよい予測を与えるのは、たとえば、意味があるからだ、という可能性を排除することを、どう正当化するのか。

現実や意味の問いを軽く扱うつもりはない。だが、何かを「無意味」と呼び、これで論争は解決、終了、おしまいだと言うには、具体的にどう無意味なのかという理論が必要だ。そして答えが与えられたら、問いはもう神秘的ではないと感じられるはずだ。

「意味論的な停止標識」で述べたように、問いへの答えというより、質問をやめるべきだと告げる認知の交通標識である言葉もある。「そもそもなぜ何かが存在するのか? 神だ!」が典型例だが、「エラン・ヴィタール!」など、他にもある。

計算の意味がわからないから「黙って計算しろ」と人に言えば、五年もしないうちに、「黙れ!」が量子力学の積極的な理論に化けてしまう。

実際に黙って計算することに近づいただけでも、自分の知っていることと知らないことを本当に慎重に評価した歴史上の物理学者には、最大限の敬意を抱く。ヒュー・エヴェレット本人になるのでなければ、それが可能な最善であり、合理性の点数を50点あげたい。私が軽蔑するのは、「なぜうまくいくかわからない」を、方程式は確実に実在しないという、積極的な知識に変えた人々だ。

だって、そんな手が通用するなら、一つの分野だけにとどめるのはもったいない。なぜ「実在しない」という抜け道を、量子力学の外でも使わないのか。

「おい、君の新しい『毛糸理論』は特殊相対性理論に反していないか?」

「いや、方程式は無意味だから。ところで君の『混沌にして悪なるインフレーション』モデルは、CPT対称性を破っていないか?」

「私の方程式は、君の方程式よりもっと無意味だ! だから君の批判は二重に無効だ」。

それでも駄目なら、自分で「刑務所釈放カード」を書いてみよう。

この話全体に教訓があるなら、区切りをつける物語を作らずに、混乱を認めた状態にとどまることが、いかに難しいかということだ。無知を、自分の持つ確かな知識のように扱わずにいるのは、それほど難しい。