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「配置空間」という考え方は、ものの記述を、ものの位置へと置き換える方法だ。青は、赤より青緑に「近い」ように思えるかもしれない。だが、どれほど近いのだろう? 色をじっと見ているだけでは、答えるのは難しい。しかし、RGBの色座標の比が、青は0:0:5、青緑は0:3:2、赤は5:0:0だとわかれば、助けになる。3次元グラフに描けば、さらに明確だろう。
同じように、コマツグミをコマツグミとして見ることもできる。茶色の尾、赤い胸、典型的なコマツグミの形、何も運んでいないときの最高飛行速度、種に特有のDNAと個体ごとの対立遺伝子。あるいは、コマツグミについて知っている、または知りうることのすべてを各次元で表す配置空間の中の、一つの点として見ることもできる。
コマツグミはウイルスより大きく、航空母艦より小さい。これが「体積」の次元に当たるかもしれない。同じく、水素原子より重く、銀河より軽い。これが「質量」の次元だろう。さまざまなコマツグミの「体積」と「質量」には強い相関があるので、この二つの次元では、コマツグミの点は、かなり直線に近い列をなすだろう。ただし相関は完全ではないから、やはり別々の二次元が必要だ。
これが、コマツグミを空間上の点として見る利点だ。コマツグミを、かわいらしく羽ばたく小さな生き物として思い浮かべているだけでは、直線状の並びはそう簡単には見えてこない。
コマツグミのDNAは非常に多くの次元を持つ変数だが、それでも「もの空間」におけるコマツグミの位置の一部と考えられる。DNAの塩基一つにつき一つ、四通りの値を取る座標が何百万もある。あるいは、もっと洗練された捉え方もできるかもしれない。コマツグミの形や色、つまり表面反射率も、それぞれが一つの次元ではないにせよ、もの空間におけるコマツグミの位置の一部と考えられる。
座標0:0:5が、実際のHTMLの色である青と同じ情報を含むように、コマツグミを空間上の点として見ても、本来、情報は失われないはずだ。コマツグミが0.07キログラムのおもりと天秤で釣り合うところを思い浮かべても、質量座標が+70のコマツグミの点を思い浮かべても、コマツグミの質量について信じている内容は同じである。
ものの個々の特徴すべてに、一つ以上の次元を割り当てた配置空間を想像することさえできる。そうすれば、その空間で点が占める位置は、実物自体が持つ情報のすべてに対応する。しかも、かなり冗長な表現になるだろう。次元には、質量も体積も密度も含まれるのだから。
大げさだと思うなら、量子物理学者は無限次元の配置空間を使い、その空間の一点が、宇宙のあらゆる粒子の位置を記述している。だから、私たちのもの空間のイメージは、実のところ比較的控えめなのだ。もの空間の一点は、宇宙全体ではなく、一つのものだけを記述する。
コマツグミの正確な質量と体積がわからなければ、もの空間の中に小さな雲、つまりコマツグミがその中にいるかもしれない不確実性の領域を思い浮かべられる。雲の密度は、コマツグミがその特定の質量と体積を持つという信念の密度だ。質量や体積より、コマツグミの密度のほうをよく知っているなら、確率の雲は密度の次元で強く集中し、質量と体積の部分空間では斜めの直線の周りに集中するだろう。(実際には、V D = Mという関係があるので、この雲は曲面だ。)
認知心理学者は、言葉の非アリストテレス的な境界を「放射状カテゴリー」として説明する。中心に位置する「母親」は、自分の子を身ごもり、産み、育てる。自分の子に一度も会わない卵子提供者は、母親だろうか? 彼女は「遺伝上の母親」だ。では、他人の胚を移植され、出産まで妊娠を継続する女性はどうか? 彼女は「代理母」だ。そして、遺伝上は自分の子ではない子どもを育てる女性は? もちろん「養母」である。アリストテレス流の三段論法なら、「人間の指は10本である。フレッドの指は9本である。ゆえにフレッドは人間ではない」となる。だが、私たちの実際の考え方は、「人間の指は10本である。フレッドは人間である。ゆえにフレッドは『指が9本の人間』である」だ。
カテゴリーの放射状の性質は、上で述べたように、内包の観点から考えられる。通常は備わっているが、なくてもよい性質ということだ。「母親」という言葉の内包を考えるなら、もの空間に広がる光のようなものかもしれない。その強さは、もの空間のその領域が「母親」というカテゴリーにどれだけ当てはまるかに対応する。光は、遺伝・出産・子育てが重なる中心に集まっている。卵子提供者の領域も光るが、明るさは劣る。
あるいは、カテゴリーの放射状の性質を、外延の観点から考えることもできる。人間が感じる似かよりにできるだけよく対応する距離尺度を使い、世界中の鳥をもの空間へ写したとしよう。あるコマツグミは、ハトよりも別のコマツグミに似ている。だが、コマツグミもハトも、ペンギンに似ている以上に互いに似ている、といった具合だ。
すると、鳥らしさ全体の中心には、互いに近接した、多くの密なクラスターが集まるだろう。コマツグミ、スズメ、カナリア、ハト、そのほか多くの種だ。ワシやハヤブサ、そのほかの大型の猛禽類は、近くのクラスターを占めるだろう。ペンギンはもっと遠いクラスターに位置し、ニワトリやダチョウも同様だろう。
その結果は、実際、天文学でいう銀河団に似たものになるかもしれない。多数の銀河が中心を巡り、少数の外れものがある。
あるいは、「鳥」という認知的カテゴリーの内包と、現実の鳥からなるその外延とを、同時に考えてもよい。中心のコマツグミやスズメのクラスターは、きわめて典型的な鳥らしさで明るく輝く。周辺のダチョウやペンギンのクラスターは、非典型的な鳥らしさで、より暗く光る。そしてエイブラハム・リンカーンは数メガパーセク離れたところにあり、まったく光っていない。
私は最後のイメージ、光る点々が好きだ。私の見るところ、認知的な内包の構造は、外延的なクラスター構造から生まれたからである。まず世界の中に構造があった。もの空間における鳥の経験的な分布だ。それを観察して、私たちは、その内包の光がおおむねこの構造に重なるようなカテゴリーを作った。
ここから、言葉がアリストテレス的な分類でない理由を、さらに別の角度から見ることができる。現実の宇宙に見られる経験的なクラスター構造は、そこまで結晶のように整ってはいないのだ。自然なクラスター、つまり互いに非常によく似たものの集まりには、必要十分な性質の組がないかもしれない。全構成員が持ち、非構成員は誰も持たない、そんな特徴の組が存在しないかもしれないのだ。
だが、カテゴリーがどうしようもなくぼやけ、でこぼこしていても、慌てる必要はない。誰かが鳥は「羽毛のある飛ぶもの」だと言っても、私は異論を唱えない。でも、ペンギンは飛ばない!――それなら、それでいい。普通の規則に例外があるだけだ。世界が終わるわけではない。どのみち定義が、もの空間の経験的構造にぴったり一致するとは期待できない。地図は領土より小さく、はるかに単純だからだ。「羽毛のある飛ぶもの」という定義の目的は、聞き手を鳥のクラスターへ導くことであって、存在するあらゆる鳥を分子の水準まで完全に記述することではない。
もの空間で経験的にまとまっている、外延を構成する点の集まりの周りに境界を引くと、考えつくどんな単純な内包的規則にも、少なくとも一つの例外が見つかるかもしれない。
だが、その定義が、意図した経験的なクラスターを指し示すのに実用上十分役立つなら、それに異議を唱えることは、正当に「重箱の隅をつつく」と呼んでよいだろう。