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合理主義者の精神には、例外なく法則に従う、還元主義的な宇宙――魂や魔法などの超自然的なものを含まない宇宙――と、感情のうえでも結びつくことが含まれると思う。そして、ただ現実であるその宇宙と、その可能性に、失望することなく、自分の希望と愛着をすべて注ぐことだ。
苦に対処する昔ながらの工夫として、頭上に屋根があることなど、感謝しているものをリストにするという方法がある。
それなら、自分が持っている能力のうち、もし魔法だったら、あるいは選ばれた少数の人しか持っていなかったら、驚くほど格好よく思えるものをリストにしてみてはどうだろう?
たとえば、目が一つだけなのではなく、額に魔法の第二の目が埋め込まれているとしよう。その第二の目は、三次元を見通すことを可能にする。普通の目には真の世界の二次元の影しか見えないのに、あなたには、どういうわけか物までどれほど離れているかがわかるのだ。この能力の持ち主だけが、剣の届く距離をはるかに超えて命を奪う伝説の遠距離武器を正確に狙えたり、「自動車」と呼ばれる超高速の機械の殻を、その潜在能力を余すところなく引き出して操れたりする。
この能力に「両眼視」という軽すぎる名前は似合わない。「奥行知覚の魔眼」といった、ふさわしく堂々とした名を持って初めて、私たちはその価値を認めるだろう。
では、お気に入りの魔法の力をいくつか挙げよう。
- 振動念話。目に見えない振動を空気そのものを通して伝えることで、この能力を使う二人は思考を共有できる。その結果、振動念話の使い手は、ほかの霊長類には不可能なほど深い感情的な絆を結べる。
- 念写描線術。表面に小さな細い線を描くことで、念写描線術の使い手は、感情、歴史、知識、さらにはほかの呪文の構造までも刻み残せる。これは振動念話より高次の能力だ。描線術師は、数千年前に生き、とうに死んだ術師の思考まで共有できるからだ。一つの描線を読みながら別の描線を刻むことで、術師は描線を複製できる。そして複製された描線には、ほかの呪文や魔法の詳しい型さえ記されうる。こうして描線術師は、魔術師としてほとんど想像もつかない力を振るう。ただし、自分では描けなかったであろう複雑な描線を使おうとして、厄介なことになる場合もある。
- 多次元念動。単純で、ほとんど考えるまでもない意志の働きによって、念動使いは、小さな触手を通じて、手の届く範囲にあるどんな物体にも、途方もなく複雑な力を流し込める。ただ押すだけでなく、多数の点で押す力を組み合わせて、効果的に回転やねじりを加えられるのだ。この念動は、一見するよりはるかに繊細な能力である。彼らはそれを使って、既存の物体を武術のような精密さで操るだけでなく、力を加えて物体を加工し、念動でより扱いやすい形にする。念動の力を広げる道具さえ作り、それによって、さらに細かく、さらに複雑な道具を作れるようになる。その正のフィードバック・ループは、響きのとおりに驚異的だ。
- 眼。この能力の使い手は、物質を結びつける「力」の中を伝わる、ごく微小なねじれを知覚できる。それは、葉に降り注いで生命を育む太陽の力に似ていながら、はるかにかすかな、小さな振動だ。眼の持ち主は、物体が「力」に生むごく小さな乱れを使い、手の届く範囲をはるかに超えた物体を感知できる。何日も旅をしなければ届かない山も、まるで腕を伸ばせば届くところにあるかのようにわかる。眼の持ち主によれば、夜になって太陽の光が消えると、想像もつかないほど遠くで燃える巨大な核融合の炎を感知できるという。もっとも、ほかの者にはそれを確かめる方法などない。たった一つの眼を持つだけで、その者は王族に等しくなると言われている。
そして最後に、
- 究極の力。この能力の使い手は、自らの内に宇宙全体の小さく不完全な写しを持つ。それによって、どんな望みの未来にも、確率の中を通って至る道を探り出せる。ばかげたほど強力な能力に聞こえるなら、そのとおりだ。これ一つで、ゲームバランスなど吹き飛んでしまう。生命の中では極めてまれな能力であり、世界の奥義、すなわち「世界の秘められた技」である。
- 究極の力に対抗できるものは、究極の力しかない。究極に満たない力は、単に究極の使い手に「理解」され、思いもよらない方法で無力化されるか、さらには究極の使い手自身の力の基盤に取り込まれてしまう。このため、究極の力はときに「技を統べる技」や「ほかのあらゆる切り札に勝つ切り札」とも呼ばれる。より強力な究極の使い手は、その「理解」を銀河規模の距離や悠久の時にまで広げ、隠された「世界の下の世界」の奇妙な法則さえ見抜ける。
- 究極の使い手も、巨大な自然災害や、力を使う暇も与えない極めて素早い奇襲で命を落としたことはある。だが、そのような勝利はすべて、結局は運の問題だ。究極の使い手が確率を曲げるのと同じ次元で対抗しているわけではない。もし生き延びれば、彼らは将来の攻撃を避けるため、時を曲げ始めるだろう。
- しかし、究極の力そのものも危険であり、多くの使い手が自らの力によって滅びた。内なる不完全な世界の写しにある欠陥の一つに、陥ってしまったのだ。
- 武器と防具を取り上げられ、牢に閉じ込められても、究極の使い手は、その惑星で最も危険な生命体の一つであり続ける。剣は折れ、手足は切り落とせる。だが、究極の力は「あなたを取り除かずには取り除けない力」なのだ。
- このつながりがそれほど密接だからかもしれないが、究極の使い手たちは、究極の力を永久に失い、取り戻す望みもなくなった者を、schiavo、つまり「息をしながら死んでいる者」とみなす。彼らは、究極の力は非常に重要であり、生き物を単なる手段ではなく、それ自体が目的である存在にするための不可欠な一部だと論じる。究極の力を欠く者には、そもそも究極の力を本当に理解することすらできず、したがって究極の力が道徳的に重要である理由も理解できないとさえ主張する。いささか都合がよすぎる議論ではある。
- この能力の使い手たちは、絶対的な貴族階級を形成し、ほかのすべての生命体を自分たちの駒として扱う。