非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

魔法を求めるなら、魔法でも救われない

If You Demand Magic, Magic Won’t Help

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たいていの魔女は神々を信じない。もちろん、神々が存在することは知っている。ときには神々とやり取りさえする。だが、信じてはいない。あまりによく知っているからだ。それは郵便配達人を信仰するようなものだろう。

あるとき、私はファンタジーの物語の哲学について考えていた――。

「ファンタジーが何たるかをわかっていない」と誰かにたしなめられる前に、言っておこう。私はSFとファンタジーに親しむ家庭で育った。5歳のころからファンタジーの物語を読んできた。ときにはファンタジーの物語を書こうとすることもある。そして私は、そのジャンルの哲学について考えずに作品を書こうとするような人間ではない。物語のアイデアは、いったいどこから来ると思っているのだろう?

ともかく、

ファンタジーの物語の哲学について考えていて、ふと思った。もし私たちの世界にドラゴンが実在したなら――動物園に行けば、あるいは遠い山にでも行けば、火を吐くドラゴンに会える一方で、シマウマを実際に見た者は誰もいなかったなら――、ファンタジーの物語にはシマウマがあふれ、ドラゴンはつまらないものになるだろう、と。

これこそ、自分で自分を袋小路に追い込むというものではないか? 非現実の向こう側の芝生は、いつも青い。

ファンタジーの定番の筋書きの一つでは、この地球の主人公が登場する。成績はひどいか、住宅ローンに押しつぶされそうだが、心は善良で共感できる人物だ。その主人公が、突然、別の世界にいる自分に気づく。そこでは科学の代わりに魔法が働いている。主人公はしばしば魔法を習い、やがては(超強力な)魔術師になる。

そこで疑問がある。そう、少し意地悪な問いだが、尋ねる必要はあると思う。おそらく、こうした小説の読者の大半は、主人公に自分を重ね、自分が魔術を身につけることを空想している。魔法を願っている。そして、読者層がよほどありそうもない偏り方をしていないかぎり、その読者の大半は科学者ではない。

科学の世界に生まれたのに、科学者にはならなかった。魔法の世界にいたら違う行動をとると、なぜ思うのだろう?

「ただの」ものなど何もないという科学的な姿勢、ただ現実であるものに興味を持つ能力がないのなら、魔法がどう役に立つのだろう? 魔法を実際に持っていたなら、それはただの現実となり、手の届かないものとしての魅力を失うだろう。最初は興奮するかもしれない。だが、宝くじの当選者が半年後には期待したほど幸せになっていないように、その興奮はすぐに薄れる。おそらく、呪文を実際に勉強しなければならなくなった途端に。

ただ現実であるものに喜びを見いだす力を、自分の中に見つけられるのでなければ。ドラゴンに乗るのと同じくらい、ハンググライダーにわくわくできること。魔法で明かりをともすのと同じくらい、電気で明かりをともすことにわくわくできること……たとえ少し勉強が必要でも……。

誤解しないでほしい。ドラゴンをけなしているわけではない。ひょっとしたら、いつか私たちが作り出すことだってあるかもしれない。

だが、ただの現実であってもハンググライダーを楽しむ力がないのなら、ドラゴンが現実になった途端に、ドラゴンにもハンググライダー以上にはわくわくしなくなるだろう。

今より未来に生きるほうがいいと思うだろうか? それは十分理解できる好みだ。物事は、時とともによくなっているように見える。

だが、千年前の暗黒時代と比べれば、ここが未来なのだということを忘れてはいけない。あなたには、王たちさえ夢にも見なかった機会がある。

この傾向が続けば、未来は確かに、生きるのにとてもすばらしい場所かもしれない。だが、未来にたどり着けたとしても、そこに着いて見つけるのは、もう一つの「今」だ。「今」にいることを楽しむ基本的な力がなければ――感情のエネルギーを未来にしか向けられず、よりよい明日を願うことしかできないのなら――、どれだけ時間が過ぎても助けにはならない。

(確かに未来には、いつも未来ばかり見てしまうという感情の問題を治す薬があるかもしれない。それでも私の基本的な論点は損なわれないと思う。どんな薬を飲みたいと願うべきか、という話なのだから。)

Less Wrongにコメントしたマシュー・Cは、ルパート・シェルドレイクの、厳密には定式化されていない「理論」にずいぶん興奮しているようだ。それは、タンパク質の折りたたみや雪の結晶の対称性といった、そもそも説明を求めてもいない現象を「説明する」という。だが、なぜマシュー・Cは、たとえば特殊相対性理論に同じくらい興奮しないのだろう? 特殊相対性理論は、実際に法則であるとわかっているのだから、なぜもっと興奮しないのか? すでに正しいとわかっている法則に興奮する利点は、その興奮が無駄にならないとわかることだ。

もしシェルドレイクの理論が、小学校で教えられる、広く認められた真実だったなら、マシュー・Cは関心を持たないだろう。そうでなければ、なぜ彼は、物理法則だと自分が信じているその特定の法則に、ほかのあらゆる法則以上に魅了されるのか?

ニューエイジの界隈に降りかからせうる最悪の災厄は、彼らの儀式が確実に効き始め、UFOが本当に空に現れることだろう。宇宙人がただそこにいて、ほかの誰にでも見えるなら、宇宙人を信じることに何の意味があるだろう? 超能力がただの現実である世界では、ニューエイジの人々も超能力を信じたりしないだろう。誰も、重力をわざわざ信じるほどには気にかけないのと同じだ。(もちろん、科学者は別だが。)

なぜ私は魔法にこれほど否定的なのか? 魔法が存在したらいけないのだろうか?

実際には、魔法に否定的なわけではない。思い出してほしい。私もときには、ファンタジーの物語を書こうとする。だが、呪文や薬が本当に効く世界に生まれたなら、今度は家庭用品が組立ラインで豊富に作られる世界を恋い焦がれるだろう、というこの心理には、苛立つのだ。

知性のうえだけでなく感情のうえでも現実と結びつくことには、自分はまさにここに生きているという事実を受け入れることが含まれる。そうして初めて、目に映るものが消えてほしいと願うことなく、この、自分の世界と、そこが差し出すどんな機会も見られるようになる。

はっきり言わせてもらえば、私には、生まれたこの世界で、戦うべきドラゴンも、習得すべき魔法も不足したことがない。あの手のファンタジー小説に放り込まれたら、禁じられた究極の魔術を学んでいる自分に気づいても、驚かないだろう――。

――だって、魔法の世界に連れていかれたからといって、なぜ何かが変わるのだろう? 大事なのは、自分がどこにいるかではなく、自分が誰であるかなのだ。

だから、「異世界転移に抗する連祷」を思い出してほしい。

どこかで幸せになるのなら、
どこかで偉大なことを成し遂げるのなら、
どこかで真の秘密を学ぶのなら、
どこかで世界を救うのなら、
どこかで強く心を動かされるのなら、
どこかで人を助けるのなら、
現実でそうすればいい。

Terry Pratchett, Witches Abroad (London: Corgi Books, 1992). ↩︎