非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

二重思考――バイアスに従うことを選ぶ

Doublethink (Choosing to be Biased)

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オブライエンの指の間に、細長い新聞の切り抜きが現れた。おそらく五秒ほど、ウィンストンの視野に入っていた。それは写真で、何の写真か疑う余地はなかった。あの写真だった。十一年前、彼が偶然見つけてすぐに処分した、ニューヨークの党の催しに出席したジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードの写真、その別の一枚だった。目の前にあったのはほんの一瞬で、すぐまた見えなくなった。だが見たのだ。間違いなく、この目で見た! 彼は苦痛にあえぎながら必死にもがき、上半身をねじって拘束を逃れようとした。どちらの方向にも、一センチさえ動かすことはできなかった。そのときは、ダイヤルのことすら忘れていた。ただ、もう一度その写真を指でつかみたかった。せめて、見るだけでも。

「存在するじゃないか!」と彼は叫んだ。

「いや」とオブライエンは言った。

彼は部屋を横切った。

向かいの壁に記憶穴があった。オブライエンは格子を持ち上げた。見えないところで、薄い紙片は暖かい気流に乗って舞い去り、一瞬の炎に消えた。オブライエンは壁から向き直った。

「灰だ」と彼は言った。「何の灰かもわからない。塵だ。存在しない。一度も存在しなかった」。

「でも存在した! いまも存在する! 記憶の中にある。僕は覚えている。あなたも覚えている」。

「私は覚えていない」とオブライエンは言った。

ウィンストンの胸は沈んだ。これが二重思考だった。死ぬほどの無力感が襲ってきた。オブライエンが嘘をついていると確信できたなら、大したことには思えなかっただろう。だが、オブライエンが本当に写真を忘れたということも、十分にありえた。もしそうなら、覚えていることを否定したことも、忘れるという行為も、もう忘れているだろう。ただのごまかしだと、どうして確信できよう。こんな狂ったような精神の脱臼が、本当に起こりうるのかもしれない。その考えが彼を打ちのめした。

もし自己欺瞞が、幸せになる助けになるとしたら? 何も考えずに飛び出してバイアスを克服すると、私たちは――なんと恐ろしいことに!――不幸になるとしたら? きっと、真の知恵とは、いつ合理的になるかを選ぶ、二階の合理性のはずだ。そうすれば、幸せを最大化するため、どの認知バイアスに自分を支配させるかを決められる。

道徳の問題は別として、こんな狂った精神の脱臼が本当に起こりうるのか、私は疑わしいと思う。

二階の合理性とは、どこかの時点で「さて、幸せになるために、これから自分は宝くじに当たると非合理的に信じよう」と考えることを意味する。だが私たちは、自分の信念をそこまで直接操れない。意志の力で、空は緑色だと自分に信じ込ませることはできない。そう信じていると信じることなら、できるかもしれない。もっとも、いま私がその違いを指摘したので、それも難しくなってしまったが。(どういたしまして!)自分は幸せで、自己欺瞞していると信じることさえできるかもしれない。だが、実際に幸せで、自己欺瞞していることにはならない。

二階の合理性が本当に合理的であるためには、まず、合理性と非合理性がどんな結果をもたらすかを推し量れる、よい現実モデルが必要だ。そのうえで一階では非合理的になることを選ぶなら、その正確な見方を忘れなければならない。そして、忘れるという行為も忘れなければならない。フィクションを証拠に一般化するという論理的誤謬を犯すつもりはないが、オーウェルはこの道がどこへ続くかを、うまく描き出したと思う。

自分のバイアスを取り除いてしまうまで、バイアスに従うことの結果はわからない。そして取り除いてしまったら、もう自分を欺くには遅すぎる。

もう一つの選択肢は、結果についてはっきりした見通しがないまま、盲目的にバイアスを持ち続けると決めることだ。これは二階の合理性ではない。わざと愚かでいようとすることだ。

自分の運転技術について非合理的に楽観的でいれば、他の人が汗をかいて怖がる場面でも、幸せに、何も心配せずにいられる。シートベルトの不便さを我慢する必要もない。一日、一週間、一年間、幸せに、何も心配せずに過ごせる。それから衝突する。そして残りの人生を、失った手足に感じるかゆみをかけたらいいのにと思いながら過ごす。あるいは首から下が麻痺する。あるいは死ぬ。必ずそうなるわけではないが、起こりうる。その確率はどのくらいだろう。自分がどの程度の危険に身をさらしているか見積もれるよう、自分の本当の運転技術を知らなければ、この損得を合理的に比較することはできない。確率の無視のようなバイアスについて知らなければ、この損得を合理的に比較することはできない。

幸せな無知の中で何日過ごせたとしても、たった一度の間違いで人の一生は台無しになりうる。愚かさという線路の上で拾い集めた小銭のすべてを上回る損失になりうるのだ。

合理主義者を目指す人に私がよくする助言の一つは、「小賢しく立ち回ろうとするな」だ。そして、「小さくても、しつこく引っかかる疑念に耳を傾けよう」。知らないのなら、自分が何を知らないかも、どれほど知らないかも、どれほど知る必要があったのかも、わからない。

二階の合理性などない。あるのは、燃えたぎる溶岩の穴かもしれないし、そうでないかもしれない場所への、目をつぶった跳躍だけだ。ひとたび知ってしまえば、もう盲目でいるには遅すぎる。

だが人はこれを見落とす。自分が何を知らないかを、知らないからだ。未知の未知は、頭の中で取り出せない。地図の空白に注意を向けず、現地にも何もないかのように扱う。目をつぶって跳ぼうかと考えるとき、危険がないか記憶を調べ、空白の地図には燃えたぎる溶岩の穴は見当たらない。なら、跳べばいいではないか。

私もそうだった。試してみた。やけどした。小賢しく立ち回ろうとするな。

あるとき友人に、愚かさの幸せはひどく過大評価されているのではないか、と話したことがある。彼女は真剣に首を振り、こう言った。「そんなことない。本当に、そんなことはないの」。

愚かで幸せな人は、いるのかもしれない。あなたより幸せなのかもしれない。そして人生は公平ではなく、手に入らないものをねたんでも幸せにはならない。Overcoming Biasの読者の圧倒的多数は、「愚かさの幸せ」を得ようとしても得られないだろう、と私は思う。その道は、あなたには閉ざされている。そこまで無知にはなれない。知っていることは忘れられず、見えたものを見なかったことにはできない。

愚かさの幸せは、あなたには閉ざされている。実際に脳を損傷しでもしない限り、決して手に入らないだろう。そうなっても、手に入らないかもしれない。愚かさの幸せが最適なのか、人間が目指せる最大の幸せなのかは、疑ってみるべきだと思う。だが、もはやどちらでもよい。その道は、かつて開かれていたことがあるとしても、あなたには閉ざされている。

いまあなたに残されているのは、合理主義者が達成できるような幸せを目指すことだけだ。最後には、そのほうが大きいとわかるかもしれない、と私は思う。限られた道もあれば、先の開かれた道もある。のんびり寝そべる台地もあれば、登る山もある。そして登るほうが労力はかかるとしても、最後には山のほうが高くそびえている。

それに、人生には幸せ以外にも大切なものがある。あなたの決断には、自分以外の人の幸せもかかっているかもしれない。

だが、これも今さらの話だ。選択肢があると気づいたときには、もう選択肢はない。見えたものを見なかったことにはできない。もう一方の道は閉ざされている。

Orwell, 1984. ↩