非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

見せかけの正当化

Fake Justification

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もはや本当には信じていない多くのキリスト教徒が、今度は、倫理上の助言の源として聖書を敬っているのだと言い張る。それに対する無神論者の定番の返答を、サム・ハリスはこう述べている。「あなたも私もわかっているはずだ。私たちなら5分もあれば、聖書より一貫していて思いやりのある道徳を説く本を作れる」。同様に、聖書は文学作品として価値があるのだと言い張ることもできる。では、文学作品としてはるかに優れた『指輪物語』を敬わないのはなぜか? トールキンの道徳観にはよくある批判もあるが、少なくとも倫理の源として、『指輪物語』は聖書より優れている。ならば、十字架の代わりに小さな指輪を首から下げないのはなぜなのか? 『ハリー・ポッター』でさえ、文学芸術としても道徳哲学としても聖書より優れている。本当に意地悪をしたければ、私は聖書をジャクリーン・ケアリーの『クシエル』シリーズと比べるだろう。

あなたが友人に尋ねる。「ノートパソコンをまったく持っていない人がこんなにいるのに、100万ドルの宝石をちりばめたノートパソコンを買うなんて、どう正当化できるんだ?」。友人は答える。「でも、これで生まれる雇用を考えてみろよ。パソコンメーカー、その広告代理店。それに、その人たちは食事をしたり髪を切ったりする。経済が活性化して、最後にはたくさんの人が自分のノートパソコンを持てるようになるんだ」。だが、One Laptop Per Childのノートパソコンを5000台買い、OLPCの製造業者に仕事を与え、しかも直接パソコンを配ったほうが、さらに効率的だろう。

第三の選択肢を探そうとしないことについては、以前も触れた。しかし、これは本当のところ、動機づけられた探索の打ち切りですらない。そう呼べば、そもそも探索を行ったかのように聞こえてしまう。

「結論」で私が指摘したように、現実における私たちの正確さに影響できるのは、信念を実際に決定した要因だけだ。目標をどれだけ効果的に達成できるかに影響できるのも、行動を実際に決定した要因だけである。100万ドルのノートパソコンを買う人が本当に考えていたのは、「わあ、きらきらしてる」だ。そして、それこそが購入決定に至る唯一の本当の因果的な経緯だった。どんなに「正当化」を重ねても、そのことは変わらない。その正当化が、結論を変えうる、本物の新たな探索過程でないかぎりは。本当に結論を変えうる過程でなければならない。義務感から行われる批判の大半は、何よりも形だけの点検だ。一党独裁国家の自由選挙である。

聖書を称賛の対象とすることを、その文学的な質によって本当に正当化するには、何とかして候補となる本を中立的に読み進め、文学的な質が最も高い本を見つけなければならない。有名であることは、候補を挙げるうえで妥当な基準の一つなので、シェイクスピアと聖書と『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を読むことになるのは、正当と言えるだろう。(そうでなければ、ほかに100万冊もある中で聖書が候補に挙がるのは、かなりの偶然になる。)本当に難しいのは、その「中立的に読む」という部分だ。キリスト教徒でなければたやすいが、もしそうなら……。

だが、もちろん、実際にはそんなことは何も起きなかった。探索など一度もなかったのだ。「私は聖書が大好き」という結論の行の上に「文学的な質」という正当化を書き足すのは、その結論が実際にどう生まれたかという来歴を偽ることだ。猫の乳を牛乳として売るようなものである。その結論は、そこから出てきたのではない。その結論を生み出したとき、実際に起きたのはそんなことではないのだ。

もし本当に、自分の結論を取り消しうる批判にさらすなら――その批判に本当にその力があるなら――それは、その結論の「背後にある本当のアルゴリズム」を変更する。さまざまな可能世界にまたがって、結論が現実とどう結びつくかを変える。だが人は、自分が実際に考えを変える可能性を、大幅に過大評価している。

あんなにも多くの人が心を開いているのなら、もっと信念が更新されていそうなものだ。

当ててみよう。そう、最初は「わあ、きらきらしてる」と思って、100万ドルのノートパソコンが欲しくなったと、あなたは認める。そう、それは公言している目標に沿った意思決定の仕方ではないと認める。だが、その後で、パソコンを持たない気の毒な人々にできるだけ多くのパソコンを届けるように、お金を使うべきだと決めた。そして、それでも、100万ドルのダイヤモンドをちりばめたノートパソコンを買うより効率的な方法は、どうしても見つからなかった。だって、パソコン店にお金を払って経済を活性化するんだから! これ以上の方法なんてない!

友よ、私はこの驚くべき偶然をひどく疑わしく思う。こんなにもすてきで、合理的で、利他的な基準Xによる最善の答えが、それとは無関係で擁護できない過程Yから最初にたまたま飛び出した考えと一致するなんて、ひどく疑わしい。サイコロを振って正しい答えが出そうだとは思わないのなら、ほかの不合理な思考から正しい答えが飛び出す可能性は、いったいどれほどあるのか?

間違った推論を使ったのに、一つも間違えなかったというのは、ありそうもないことだ。