非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

参加するために求める対価

Your Price for Joining

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最後通牒ゲームでは、最初のプレイヤーが10ドルを自分と二人目の間でどう分けるかを決め、二人目がその分け方を受け入れるか拒むかを決める。拒めば両者とも何も得られない。従来の因果的意思決定理論、つまりニューカム問題では二つの箱を取り、囚人のジレンマでは裏切る理論に従うなら、二人目はゼロでない金額なら、何もないよりよいと考えるべきだ。だが、最初のプレイヤーが、ゼロでなければどんな提示も受け入れるという行動を予想しているなら、1セントより多く提示する動機はない。皆さんも今ではご存じだろうが、私は従来の因果的意思決定理論の支持者ではない。ゲームが繰り返されるからでも、効用関数に公平さの項があるからでも、従来とは違う意思決定理論を使うからでも、囚人のジレンマでの協力に依然として関心を持つ私たちは、1セントの提示も受け入れないかもしれない。

実際、最後通牒ゲームで分配を「決める側」の大半は均等な分配を提示し、「受け入れる側」の大半は20%未満の提示を拒む。インドネシアで行われた100米ドルのゲームでは、二週間分の賃金に相当する30ドルの提示さえ拒まれた。当時の一人当たり平均所得は670ドルだった。インドネシアのプレイヤーたちは、ニューカム型問題についての学術的論争を考えていたわけではないだろう。これが、実際にお金のかかる場合も含めて、人々が最後通牒ゲームに抱く感情なのだ。

集団の協調にも、最後通牒ゲームに似たものがある。(研究されているだろうか。そうあってほしいが……。)共同プロジェクトがあるとしよう。カナダの路上強盗の被害者を助けるとか、何かそうした利他的な共同事業だとしよう。この集団の事業に参加すれば、自分の効用関数に照らして、一人でやるより多くを成し遂げられる。ならば、明らかに参加すべきだ。

だが、待ってくれ! この強盗対策プロジェクトは、資金をマネー・マーケット・ファンドに投資している! そんなのは馬鹿げている。分配金の出るインデックスファンドどころか、米国債ほどの利息すら得られないではないか。

明らかに、このプロジェクトを運営している連中は愚か者だ。投資のまずいやり方を変えるまで、参加すべきではない。

さて、立ち止まって考えれば、すべてを考慮しても、単独で犯罪と闘い始めるより、この共同の強盗対策プロジェクトに力を合わせるほうが、やはりよい結果になると気づくかもしれない。だがそこで、こう気づくかもしれない。集団に参加することをあっさり承諾してしまったら、相手にはまずい投資のやり方を変える動機が、いったい何かあるだろうか。

まあ……いいだろう、聞いてほしい。誰もが互いを知っている祖先の環境から、私たちが離れたせいかもしれない。また、非同調的な人々が、同調や指導者崇拝のような、集団をまとめる普通の力を否定しようとするせいかもしれない……。

……無神論者、リバタリアン、技術好き、SFファンなどの集まりでは、参加するために要求する対価が、しばしばあまりにも、あまりにも、あまりにも高いように思えるのだ。50人で分ける最後通牒ゲームで、50人全員が、それぞれ金額の20%以上を要求しているようなものだ。

祖先の環境でこうした状況がどれほど頻繁に生じただろうかと考えると、これはほぼ確実に進化心理学の問題だ。システム2の計算ではなく、システム1の感情である。集団にいつ加わるか、いつ参加を渋って自分好みのやり方への譲歩をもっと引き出すか、という直感は、たとえば全員を個人的に知っている40人の狩猟採集民の環境に合わせて磨かれただろう。

では、集団が1,000人だったら? 狩猟採集民としての本能は、それほど大きな集団の動きにくさを過小評価し、参加の条件として、非現実的なほど大きな戦略変更を求めるだろう。誰か一人の望むやり方に合わせるために使える組織の労力も、自由度も、限られている。

では、その戦略が、たき火を囲んで30分交渉すればまとまるものではなく、たとえば10人が一週間書類仕事をしなければならないほど大きく複雑だったら? 狩猟採集民としての本能は、自分の要求に対して集団がどれほど動きにくいかを、過小評価するだろう。

では、狩猟採集民の一つの部族より広い世界に生きていて、自分と交渉する集団の代表者一人しか見えず、それまでに行われた他の100件の交渉は見えていなかったら? 本能は、相手はただ一人、しかも見知らぬ人であり、自分たちは対等なのだと告げるだろう。相手が持ってくる考えと自分が持ってくる考えは対等で、折り合いはだいたい半々のところにつくべきだ、と。

そして、意志の弱さやアクラシアに悩んでいたり、自分で自分に認めている以外の動機にも左右されていたりするなら、地位や支配権という見返りを与えてくれない集団の利他的事業には、十分な注意を向けられないかもしれない。

もちろん、ここで私が主に、気ままな猫たちをまとめようと奔走する側の視点から話していることは認める。その逆の、すでに事業に取り組んでいる忌々しい愚か者たちを脅すため、自分の力を出し渋ることに時間の大半を使う側の視点ではない。多少の偏見はあるかもしれない。

だが、次のような経験則が妥当なのではないかと思う。

全体として、自分の力を集団のプロジェクトに合わせることが、自分の効用関数に照らしてなお差し引きでプラスになるなら――

(あるいは、その資源を他の用途に追加で投入した場合より大きなプラスになるなら。ただし、この後者の考え方はあまり使われておらず、人間にとって非現実的に見える。その理由は別の機会に書くかもしれない。)

――そして、そのひどく不快で腹立たしい問題が、解決に何時間、何週間、何年かかろうと、あなた自身がそこまで深く関わって直そうと思うほど重要ではないなら――

――その問題は、プロジェクトに力を貸すのを拒むほどのものではない。自分に注意を向け、尊重しているとわかるまで本能的に拒むのであれ、集団を脅して解決させようと意識的に拒むのであれ、だ。

そして、その問題があなたにとってそれだけの価値を持つなら……ぜひ集団に加わり、直すために必要なことを何でもしてほしい。

ここで、すでに貢献している人たちが、あなたにそうさせることを拒み、しかも、道理のわかる第三者なら、あなたには十分な能力があると判断するだろうと思われ、しかも、そのせいで他の誰かの利益が損なわれるわけでもないなら、そのときには、もしかすると問題があるのかもしれない。そして、条件付きで約束できる資源が相手の注意を引くほど大きいなら、少し脅しを使うべきときかもしれない。

この規則は少し極端だろうか。まあ、そうかもしれない。プロジェクトの意思決定機構には、支持者に対して責任を果たす動機があるべきだ。無条件の支持は、それ自体の問題を生む。

だが、たいていは……人は自分の要求の費用を過小評価しているか、ただ本能で行動していて、対価をあまりにも、あまりにも、あまりにも高く設定している、と私は見ている。非同調的な人々が一緒に何かを成し遂げたいなら、少しだけでももっと気軽に集団に加わり、とどまる方向へ進む必要がある。腹立たしいことや不完全なところがあっても! 自分のもっとよい考えに反応してくれなくても!

インターネットの時代に、非同調的な人々と付き合っていると、ウェブサイトのフォントがサンセリフになるまで、この共同プロジェクトに自分の資源を注ぐ価値はない、という451通目の公開メールを読むのは、さすがに少し疲れてくる。

もちろん、本当はフォントの話ではないことも多い。怠惰やアクラシア、あるいは隠れた拒絶理由の話かもしれない。だが集団の規範として、どんな公の発言を尊重し、どんな言い訳を公然と軽蔑するかという点では、おそらく次のような規範を奨励したいと思うはずだ。

その問題が、どれだけの労力がかかろうと自分で直すほどの価値を持たず、明らかな不誠実さに由来するものでもないなら、自分が価値あるものと認める活動に力を貸すのを拒むほどの問題ではない。