非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

超正常刺激と西洋文明の崩壊

Superstimuli and the Collapse of Western Civilization

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何日も休まずオンラインゲームを続けて死亡した人が、少なくとも三人いる。World of Warcraftのために、配偶者や仕事や子どもを失った人もいる。人にゲームをする権利があるなら――これ以上に基本的な権利は、なかなか思いつかない――市場はそれに応え、売れる限りで最も夢中にさせるゲームを供給するだろう。とりわけ夢中になった消費者が、遺伝子プールから脱落するところまで。

消費者向けの商品が、57時間も使ったあとに、食事や睡眠よりもう1時間の使用を選ぶほど、人をのめり込ませるのはなぜなのか。(これからの人生を生きるより、次の1時間Starcraftをするほうがよいと、消費者は合理的に判断したのだ、と論じることもできるのだろう。だが、その話はやめておこう。お願いだから。)

チョコレートバーは超正常刺激だ。祖先の環境にあったどんなものより、糖分、塩分、脂肪が濃縮されている。狩猟採集環境で進化した味蕾に合うが、その環境に実際に存在したどんなものよりも強く、その味蕾に訴えかける。かつては健康的な食べ物と確かに結びついていた信号が乗っ取られ、訓練データにはなかった味の空間の一点に、かき消されてしまったのだ。祖先の時代のグラフでは、ありえないほど遠い外れ値にあたる。かつて健康によさそうだと進化によって見いだされた特徴を表していた「おいしさ」が、仕組みを逆算され、人工物によってぴたりと満たされている。残念ながら、できあがった食品を、おいしさと同じくらい健康によいものにする市場の動機は、それほど強くない。何しろ、健康によいかどうかは舌ではわからない。

今では有名なDove Evolutionの映像は、別の超正常刺激を丹念に作り上げる過程を示している。普通の女性が、化粧、念入りな撮影、最後には大幅な画像加工を経て、広告看板のモデルに変わる。加工されていない現実世界の女性にはかなわない、実現不可能な美しさだ。実在の女性たちが、文字どおり存在しない競争相手に追いつこうとして、命を削っている。体重を抑えるためにコカインを使うスーパーモデルなどが、その例だ。

同じように、ゲームは、ただのコンピュータ画面越しでさえ、単なる現実よりはるかに人を引きつけることがある。文字どおり死ぬまで、食べも眠りもせず遊ぶ人が出るほどに。ゲームに使われている仕掛けをすべて知っているわけではないが、いくつかは推測できる。簡単すぎることと不可能なことの境目にある課題、間欠的な強化、増え続ける点数を示すフィードバック、大人数参加型ゲームでの人づきあいなどだ。

ゲームをもっと夢中になれるものにする、市場の動機には限界があるだろうか。プレイヤーが仕事を失うところまで来れば、それ以上の動機はないと期待したくなる。結局、利用料を払ってもらわなければならないからだ。だとすれば、ゲームの依存性には「ちょうどよい点」があることになる。釣鐘型の分布の山の中心では楽しく遊べて、裾の少数の不運な人だけが、仕事を失うほど依存する。2007年現在、World of Warcraftを58時間連続でプレイして実際に死ぬことは、確かにまだ通常のことではなく例外だ。しかし、ゲームメーカーは競争している。自分のゲームの依存性を5%高めれば、競争相手の客の50%を奪えるかもしれない。この問題がはるかに悪化しうることは、見て取れるだろう。

人に誘惑される権利があるなら――自由意志とは、まさにそういうものだ――市場は、売れる限りの誘惑を供給して応えるだろう。現在の有力な競争相手より、刺激を5%魅力的にする動機がある。その動機は、祖先の環境からすれば異常な超正常刺激になったあとも、ずっと続く。商品を売るための女性の美しさの基準が、1950年代の広告からどれほど変わったか、考えてみてほしい。そしてチョコレートバーが示すように、超正常刺激が消費者に巻き添えの害を与え始めたあとも、市場の動機はずっと続く。

それなら、ただ「ノー」と言えばよいのではないか。自由市場経済学の重要な前提は、強制や詐欺がなければ、人はいつでも有害な取引を拒めるというものだ。(これが真実である限り、自由市場は全体として最善の政策であるだけでなく、欠点がほとんどない、あるいはまったくない政策になる。)

いつも食べ物を見送る生物は死ぬ。ゲームプレイヤーの中には、身をもってそれを知った人もいた。しかし祖先の環境でも、たいていは有益で、それゆえ魅力的な行動が、実際には有害になる場合があった。人間は生物として、そうした特殊な場合を抽象的思考で見抜く能力に、とりわけ優れている。一方で、実際には存在しない特殊な結果を、たくさん想像してしまう。まったく問題のないウサギを食べるなと命じる祖先の霊などだ。

進化は妥協点を見つけたらしい。あるいは、古い仕組みの上に新しい仕組みを積み重ねただけかもしれない。ホモ・サピエンスは今も食べ物に誘惑されるが、大きな前頭前皮質のおかげで、誘惑に抵抗する限られた能力を持つ。無限の能力ではない。意志力が強すぎた祖先は、おそらく神々への供物のために自分を飢えさせたり、不倫を思いとどまることが一度多すぎたりしたのだろう。死んだゲームプレイヤーたちも、あれほど長く食べも眠りもせず遊び続けるために、ある意味では意志力を働かせたはずだ。自制には進化上の危険もある。

どんな誘惑に抵抗するにも、使い果たしうる心のエネルギーを、意識して費やす必要がある。「ただノーと言えばいい」というのは、実際には正しくない。自分に何の代償もなく、ただノーと言えるわけではないのだ。意志力や先を見通す力について、生まれのくじに当たった人でも、誘惑に抵抗する代償は払う。ただ、その代償を払いやすいというだけだ。

限られた意志力は、祖先の時代の誘惑に対処するために進化した。狩猟採集民が知るどんなものをも超える誘惑には、うまく働かないかもしれない。超正常刺激への抵抗に成功したとしても、その努力は、祖先の時代の誘惑に抵抗するより、はるかに速く意志力を消耗させそうだ。

超正常刺激を人目にさらすことは、それを断る人にとっても負の外部性なのだろうか。チョコレートクッキーの広告や、「アイスクリーム」と堂々と書いた店先を禁止すべきなのか。

問題が存在するからといって、追加の根拠と相当な立証なしに、政府が解決できることにはならない。規制当局の担当者が自分の経歴のために重視するのは、消費者への軽度の害と、依存性のある超正常刺激を組み合わせた商品ではない。新聞に載るほど派手な問題を起こす商品だ。逆に、政府に解決できないかもしれないからといって、問題が起きていないことにはならない。

最後に、フィクションを証拠にした議論を一つ残そう。サイモン・ファンクのオンライン小説After Lifeは、ほかの筋書きとともに、生物学的なホモ・サピエンスを計画的に絶滅させる企てを描く。行進するロボット軍団によってではない。本物の子どもよりはるかにかわいく、愛らしく、育てるのが楽しい人工の子どもによってだ。先進社会の人口崩壊は、子どもを持つことの代わりに、市場がますます魅力的な選択肢を供給する一方、おむつを替えることの魅力は時とともに変わらないから、起きるのかもしれない。「繁殖せよ」という広告看板は、どこにあるだろう。不機嫌な十代の子と口論することを、タヒチでの休暇より魅力的に見せるために、誰がプロのイメージ戦略家に金を払うのか。

「結局」とサイモン・ファンクは書いた。「人類は、ただマーケティングによって絶滅したのだった」