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1989年のカナダの研究で、成人たちは、さまざまな年齢の子どもの死を想像し、どの死が親に最も大きな喪失感を与えるかを見積もるよう求められた。結果をグラフにすると、悲嘆は思春期の直前まで大きくなり、その後は小さくなり始めた。この曲線を、生涯を通じた繁殖能力の変化を示す曲線――カナダの人口統計から計算したもの――と比較すると、かなり強い相関があった。だが、それよりずっと強く、実際にはほぼ完全だったのが、この現代のカナダ人の悲嘆曲線と、アフリカの狩猟採集民であるクン族の繁殖能力の曲線との相関だった。言い換えれば、悲嘆の変化の仕方は、祖先の環境の人口動態を踏まえたダーウィン主義者の予測と、ほぼ完全に一致したのである。
第一の相関は0.64、第二はきわめて高い0.92だった(N = 221)。この説明から見て、研究の最も明らかに見事でない点は、特定の年齢の子を持つ実際の親に尋ねる代わりに、成人に親の悲嘆を想像させていることだ。(実際の親を集めると費用が増すか、被験者が減るのだろう。)ただし私の理解では、この結果は、別の相関、つまり親の悲嘆と子の年齢との直接的な相関を調べていた、親の悲嘆についてのより詳しい研究のデータとも、よく一致していた。
そのうえで、この実験の見事な点をいくつか考えてみよう。
- 相関が0.92なのだ! 怪しいほど高く聞こえるかもしれない。進化にそんな精密な調整ができるのか、と。だが、この選択圧は、親の悲嘆を微調整するほど強かっただけではない。そもそも親の悲嘆を何もないところから一から作り出すほど強かったのだと気づけば、そう不思議でもなくなる。
- 進化心理学は事前に予測したことが一度もないと言う人々は、皮肉にも、ただ「科学が何を知らないかは誰も知らない」症候群の犠牲者なのだ。進化心理学がなければ、これを実施すべき実験として思いつくことすらなかっただろう。
- この実験は、意識的または無意識的な隠れた動機と、自分を生み出したもともとの選択圧にはリアルタイムに反応しない、作動中の適応との違いを、私が見たどんな実験にも劣らず、美しく明瞭に示している。
親の悲嘆は、無意識の水準でさえ繁殖価を目的としているわけではない。そうなら、クン族ではなくカナダの繁殖価に合わせて更新されるはずだ。悲嘆は、今ではただ存在している適応であり、心の中に実在し、それ自体の慣性で働き続けている。
親は、子どもが繁殖に貢献するから大切にするのではない。子ども自身のために大切にする。そして、そもそもなぜそのような心が宇宙に存在するのかという、認知とは別の、進化史上の理由は、子どもが親の遺伝子を受け継ぐからだ。
実際、宇宙に心が一つでも存在する理由は進化にある。だから、私が隠れた動機への冷笑的な見方に、進化と認知の境界で、はっきり一線を引きたい理由が分かるだろう。そうしなければ、スーパーのレジの列で、「おい! 私の食料品を袋に入れるときに視覚情報を正しく処理しているのだって、自分の包括適応度を最大化するためにすぎないんだろう!」と言い出すようなものだ。
(1)0.92という相関は、私がこれまで見た進化心理学の実験では最高で、心理学全体でも最高の部類に入ると思う。(もっとも、たとえば一方の被験者群に「AはBにどれくらい似ているか?」と尋ね、もう一方に「Bという条件のもとでAの確率はいくらか?」と尋ねると、0.98の相関になったという報告は見たことがある。「赤玉800個と白玉200個の入った樽から、赤玉60個と白玉40個を引く可能性はどれくらいか?」といった問いについてだ。つまり、これらは単に同じ問いとして処理されているのである。)
ここにいる私たちは皆ベイズ主義者なので、事前確率を考慮し、この予想外に高い相関の少なくとも一部が偶然によるのではないかと問うことができる。進化による微調整は、おそらく当然と考えてよい。扱っているのは巨大な選択圧だからだ。ばらつきが怪しいほど小さい原因として残るのは、(a)多数の成人が平均的には、親の悲嘆の相対的な強さを正しく思い描けるかどうか――どうやらできるらしい――と、(b)現存するクン族がこの点で祖先の狩猟採集民の典型なのか、それとも狩猟採集民の集団の種類のあいだのばらつきが大きすぎて、本来は0.92の相関にはならないはずなのか、ということだ。
だが、懐疑的な事前確率をいくら考慮しても、相関0.92でN = 221というのは、かなり強い証拠だ。これらすべての点で、私たちの事後確率では疑いの度合いを弱めるべきだ。
(2)実際の悲嘆を振り返って調べるのではなく、先を見越して想像した悲嘆で実験したのは、見事でない点だと思うかもしれない。だが、親の行動を子の喪失から遠ざけるよう実際に導くのは、先を見越して想像した悲嘆なのだ! 進化の観点では、すでに死んだ子は埋没費用である。進化が「望む」のは、親が苦痛から学び、同じことを繰り返さず、幸福感の基準点に戻り、ほかの子どもを育て続けることである。
(3)同様に、親の悲嘆と相関するグラフは、ある年齢まで生き残った子どもの、将来の繁殖能力を示すものであって、その年齢まで生き残った子を育てるために費やした埋没費用ではない。(子をX歳まで育てた埋没費用をすべて除外し、X歳の子を自立するまで育てることの、繁殖上の機会費用を考慮すれば、さらに高い相関が得られるだろうか?)
人間は普通、埋没費用を気にする。これはおそらく、戦略を頻繁に切り替えすぎるのを防ぐ適応か――好機に目が行きすぎる傾向を補うのだろうか――資源を無駄にしたときの苦痛から生じた、不幸な副産物である。
一方、進化は、「埋没費用を気にしない」のではなく、そもそもそんなふうには「考え」もしない。「進化」とは、歴史上実際に生じた繁殖の帰結についての、巨視的な事実にすぎない。
だから当然、親の悲嘆という適応は、子どもに対する過去の投資とは無関係で、その子を失うことが将来の繁殖にもたらす帰結に全面的に関わるよう、微調整されている。自然選択は、私たちのように埋没費用に取りつかれてはいない。
だが当然、その適応は、親がカナダではなくクン族の中で暮らしているかのように、働き続ける。人間なら大半は、その違いに気づくだろう。
人間と自然選択は、それぞれ異なる、安定した、複雑な仕方で正気を欠いている。
ロバート・ライト、モラル・アニマル――私たちはなぜこうあるのか:進化心理学という新しい科学(Pantheon Books、1994年)。Charles B. Crawford、Brenda E. Salter、Kerry L. Jang「人間の悲嘆――その強さは故人の繁殖価に関係するか?」、Ethology and Sociobiology 10、第4号(1989年):297–307。 ↩︎