非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

仮説を特別扱いする

Privileging the Hypothesis

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人口100万人の町ラージヴィルで、警察が殺人事件を捜査しているとしよう。手がかりはほとんど、あるいはまったくない。被害者は路地で刺し殺され、指紋も目撃者もいない。

そこで刑事の一人が言う。「さて……犯人は見当もつかない……この町の100万人のうち誰かを特定する証拠もない……だが、オーディナリー通り128番地に住むモーティマー・Q・スノッドグラスが犯人だという仮説を検討しよう。何しろ、彼が犯人である可能性はあるのだから」

これを仮説を特別扱いする誤謬と名づけよう。(すでに正式な名前があるなら教えてほしい。これが述べられているのを見た覚えがない。)

さて、その刑事は、法廷で採用される証拠ではないが、何らかの合理的な証拠を持っているのかもしれない。たとえば情報提供者からの伝聞だ。だが、モーティマーを警察が特に注目する対象へ引き上げるための何らかの根拠を、すでに持っているのでなければ——名前をまったくでたらめに引き当てただけなら——モーティマーの権利は侵害されている。

刑事が、モーティマーが実際に「やった」と主張するのではなく、やったかもしれないと考えるために時間を使ってほしいと頼んでいるだけでも、同じだ。根拠なく、その特定の仮説を注目の対象へ引き上げている。反証より確証を探すのが人間の性質だ。3人の刑事が、それぞれ自分の憎む相手の名を、検討すべき候補として出したとしよう。モーティマーは茶髪、フレデリックは黒髪、ヘレンは金髪だ。その後、現場を去った人物は茶髪だったと言う目撃者が見つかる。「やっぱり!」と警察は言う。「前は候補を区別する証拠がなかったが、いまではモーティマーがやったとわかった!」

これは、私が「仮説の所在を突き止める」と呼び始めた原則に関係している。箱が10億個あり、ダイヤモンド、つまり真実が入っているのは一つだけで、検出器がそれぞれ1ビットの証拠しか与えないとしよう。その場合、真実を特に注目する対象へ引き上げる——一つずつ注目する価値のある、有力な10候補まで絞る——には、その10候補のどれが真実かを見分けるより、はるかに多くの証拠が要る。10候補へ絞るには27ビットが必要だが、そこからわずか4ビット追加すれば、正解を得ている確率は半分を超える。

つまり、ほかに100万人もいるのに、理由もなくモーティマーを警察の特別な注目の対象へ引き上げる刑事は、彼に対して提示すべき証拠の大部分を飛ばしているのだ。

しかも、その証拠は、モーティマーを警察の注目の対象にそもそも載せる、その最初の瞬間に持っていなければならない。法廷の証拠ではなく、単なる合理的な証拠でもよい。だが証拠がないなら、その刑事は気の毒なモーティマーに嫌がらせをし、迫害している。

最近のスコット・アーロンソンとの量子力学の動画対談で、私はどうにか、収縮仮説や単一世界の量子力学を支持する具体的な証拠はまったくない、とスコットに認めさせるところまで追い込んだ。だが彼は、単一世界の量子力学を支持する証拠に将来出会うかもしれず、多世界にはまだボルン確率の未解決問題がある、と言った。

これこそ、私が仮説を特別扱いする誤謬と呼ぶものだ。物理学全体で唯一の、非線形で、非ユニタリで、不連続で、微分不可能で、CPT対称性を持たず、配置空間で非局所的で、リウヴィルの定理に違反し、特権的な同時性の空間を持ち、超光速の影響を及ぼし、非因果的で、非形式的にしか指定されていない法則となる収縮仮説など追加しなくても、ボルンの問いに答えるもっとよい方法は、1兆通りもあるはずだ。それほど非物理的なものは、相当に重い証拠なしには、口に出す価値も、可能性として考える価値もない。その証拠は、現在の合計であるゼロを、はるかに上回らなければならない。

だが歴史の偶然によって、収縮仮説や単一世界の量子力学は、実際に誰もが口にし、考えるための候補として誰の頭にもある。そのため、ボルン確率の未解決問題が、多世界はまだ世界の完全な描像を提示できていないという証拠として、ほかならぬスコット・アーロンソンから持ち出される。そしてそこから、単一世界の量子力学も、どうやらまだ候補に残っているということにされるのだ。

人間の心では、それ以上に複雑でも、それ以上にありそうにないわけでもない、ほかの1兆の可能性ではなく、この特定の仮説を考えさせられれば、それだけで説得の作業の大部分を、本当に成し遂げたことになる。考えられたものは何でも「競争に参加している」と扱われ、ほかの走者が少し遅れたように見えれば、この走者が前進し、あるいは先頭に出かかっていると考えられる。

そう、これは、現代科学は宇宙全体を完全無欠には説明していないと指摘し、それをエホバの存在の証拠とする有神論者が、もっと露骨な規模で犯すのと同じ誤謬だ。アッラーでも、空飛ぶスパゲッティ・モンスターでも、劣らず複雑なほかの1兆の神々でもなく、エホバなのだ。自然主義的な説明の空間に至っては、言うまでもない!

進化論の欠陥だとされる点や未解決問題を指摘するたびに「インテリジェント・デザイン」を持ち出すのも、やはり仮説の特別扱いだ。ほかの千の考えではなく、その特定の考えを私たちの注意へ引き上げることを正当化するには、インテリジェント・デザインを特に指し示す証拠を、すでに持っていなければならない。

これが正気の規則だ。それに対応する反認識論は、「可能性」や、その考えを「反証できない」ことを延々と語る。すでに持っている過去の証拠を提示せず、将来の証拠が確証してくれるかもしれないと願う。不利かもしれない証拠を評価せず、可能性を何度も何度も考え続ける。起こるかもしれないがまだ起きていない確証的な観察を、輝かしい言葉で描く。あるいは、否定的な証拠を一つずつ、どれも「決定的ではない」と示そうとする。

オッカムの剃刀によれば、複雑な命題ほど信じるのに多くの証拠が要る。同様に、複雑な命題ほど、注意の対象に引き上げるのにも、多くの作業が必要であるべきだ。重荷となる細部の原則が、信念の各部分を個別に正当化するよう求めるのと同様に、各部分を個別に注意の対象へ引き上げることを求めるのだ。

「永久機関のような信念」で論じたように、信仰と第二種永久機関(水→氷+電気)には、何もないところから、起こりにくいことを作り出すと称する共通点がある。水が氷を作るという起こりにくさでも、観察なしで正しい信念に至るという起こりにくさでも同じだ。その起こりにくさを作り出す「逆向きの仕事」の大半が、根拠のない信念に注意を払わせること、それを考え、いつまでも考えることだったりする。答えの空間が大きいとき、証拠なしに注意を向けることは、証拠なしに信じるまでの道のりの、半分以上を進んでいる。

アッラーやトールや空飛ぶスパゲッティ・モンスターではなく、三位一体が存在するかどうか一日中考える人は、キリスト教への道の半分以上を進んでいる。離れようとしているなら、まだ半分も離れていない。近づいているなら、すでに半分以上来ている。

よく見かける特別扱いの方法は、ある空間内の不確実性を、その外へこぼして、特別扱いした仮説にかけようとすることだ。たとえば創造論者は、現代の理論の、議論があるとされる何かの側面を捉え、科学者は進化について確信がないと論じ、それから「どの理論が正しいか本当にはわからないのだから、インテリジェント・デザインが正しいかもしれない」と言う。だが、その不確実性は、自然主義的な進化理論の領域の中にある不確実性だ。それに対処するのに、その領域から出なければならないと信じる理由はない。まして、標準的な科学の領域から飛び出して、とりわけエホバの上に着地するという理由は、なおさらない。それが仮説の特別扱いなのだ。普通の空間の中の疑いを取り、その空間の外へこぼして、特別扱いされた、たいていはすでに信用を失っている、極端に異常な対象へ向けようとする。

同様に、ボルン統計がどこから来るかについての不確実性は、連続的、線形、ユニタリ、光速以下、局所的、因果的、自然主義的など、物理法則の通常の性質を持つ量子理論の空間の中の不確実性であるべきだ。その一部は標準的な空間の外へこぼれ、こうした標準的性質の一つを破る理論へ向かうかもしれない。枠の外で考えなければならない可能性は、実際にある。だが単一世界理論は、こうした性質をすべて破るのであり、その仮説を特別扱いする理由はない。