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前の論考の実験には、重要な教訓が二つあった。
第一に、振幅の流れは打ち消し合うことがあり、絶対値の二乗という魔法の尺度は線形ではないので、配置の同一性は固定されているとわかった。可能世界をまとめ直すようには、配置を組み替えられない。どの配置が同じで、どれが異なるかは、実験の結果に影響する。観察可能な事実なのだ。
第二に、配置は複数の粒子についてのものだとわかった。装置に光子が二つ入るからといって、初期配置が二つあるわけではない。初期配置を特定する内容は、「二つの光子が入ってくる」なのだ。(理想的には、話題にする各配置には、鏡や検出器を構成する粒子も含め、実験中の全粒子を含めるべきだ。そして実際の宇宙では、あらゆる配置は、あらゆる場所の、すべての粒子についてのものである。)
配置を異ならせるのは、粒子が別々であることではない。各配置は全粒子についてのものだ。配置が異なるのは、粒子が異なる位置を占めているからだ。少なくとも一つの粒子が、違う状態にある。
重要な実例を一つ見てみよう……。
図1
図1は、「配置と振幅」の図2と同じ実験だが、重要な変更が一つある。AとCのあいだに、敏感な物体Sが置かれている。Sの重要な性質は、光子がSのそばを通ると、Sが少し違う状態になることだ。
Sの二つのありうる状態を、YesとNoとしよう。敏感な物体Sは、初めはNoの状態にあり、光子が通るとYesになる。
すると、初期配置は次のとおりだ。
「光子はAへ向かう。SはNoの状態」、(−1 + 0i)。
次は、Aにある半透鏡の作用だ。敏感な物体がなかった前の実験では、その結果の二つの配置は、振幅−iの「AからBへ」と、振幅−1の「AからCへ」だった。だが今は、系に新しい要素が加わっている。すべての配置は全粒子についてのものなので、どの配置にも新しい要素が記される。したがって、初期配置から振幅が流れる先は、
「光子はAからBへ。SはNoの状態」、(0 − i)
「光子はAからCへ。SはYesの状態」、(−1 + 0i)。
続いて、BとCにある全反射鏡の作用だ。
「光子はBからDへ。SはNoの状態」、(1 + 0i) 「光子はCからDへ。SはYesの状態」、(0 − i)。
そして、上の二つの配置から流れる振幅に対し、Dの半透鏡が作用する。
- 「光子はDからEへ。SはNoの状態」、(0 + i)
- 「光子はDからFへ。SはNoの状態」、(1 + 0i)
- 「光子はDからEへ。SはYesの状態」、(0 − i)
- 「光子はDからFへ。SはYesの状態」、(1 + 0i)。
敏感な物体なしにこの実験をしたときは、「DからEへ」という配置へ向かう(1)と(3)の振幅の流れ、(0 + i)と(0 − i)が打ち消し合った。その結果、検出器1へ光子が向かう振幅は残らなかった。ずっと上の実験の水準では、検出器1に光子が当たるのを、決して観察しない。
だが今回は、(1)と(3)の二つの振幅の流れは、異なる配置へ向かっている。(1)と(3)では、少なくとも一つの存在、Sが違う状態にある。振幅は打ち消し合わない。
四つの最終配置に、絶対値の二乗の比を測る魔法の検出器をかざすと、絶対値の二乗はすべて等しく、確率はそれぞれ25%だとわかる。ずっと上の現実世界の水準では、光子が検出器1に当たる確率と検出器2に当たる確率は等しい。
ここまでの話はすべて、研究者である私たちがSの状態を気にしなくても成り立つ。可能世界とは違い、配置は気まぐれにまとめ直せない。二つの配置が異なることを決めるのは物理法則であり、どう世界を分ければ私たちに便利かという問題ではない。
ここまでの話はすべて、Sの状態をわざわざ見なくても成り立つ。違いを知らなくても、(1)と(3)の配置は、物理的には異なる。
ここまでの話はすべて、Sの存在を知らなくても成り立つ。二つの可能性について別々の心的表象をもっていようといまいと、(1)と(3)の配置は異なる。
ここまでの話はすべて、私たちが宇宙空間にいて、調べている光子が通ったかどうかに応じ、Sが別々の二方向へ、新しい光子を星間の虚空に向けて放出しても成り立つ。そうなれば、SがYesかNoだったかは、私たちには永遠にわからない。Sの状態は、どことも知れぬところへ飛ぶ光子に具現化される。失われた光子は、理論から含意される、見えないものであり、Sの状態は実際上検出できなくても、配置はなお異なる。
(これがうまくいかない主な場合は、Sが少し動かされたものの、配置空間でのSの元の広がりが、そのずれより大きかった場合だ。すると、そのずれによって配置空間上の振幅分布を別々の塊に分けられるとは限らない。現実には、これらはすべて、連続的な配置空間上の微分可能な振幅分布の中で起きる。)
配置は信念の状態ではない。配置が異なることは、実験の結果を伴う客観的な事実だ。誰もSの状態を知らなくても、知的な存在が誰一人として知りえなくても、配置は異なる。宇宙のどこかで、少なくとも一つの粒子が違う位置にあるかぎり、配置は異なる。これは実験で示せる。
なぜこんなに強調するのか。誰も量子物理学を理解していなかった暗黒時代には……。
図2
さて、実際に何が起きているか、まったくわからないところを想像してほしい。図2の実験をすると、検出器1には光子が現れない。なるほど。
さらに、BとDのあいだ、あるいはAとCのあいだに遮蔽物を置くと、検出器1と2に同じ割合で光子が現れることもわかる。ただし一度に一つだけだ。検出器1か2のどちらかが反応し、両方が同時には反応しない。
だから確かに、粒子を相手にしているように見える。あなたが見るときはいつでも、光子は一度に一か所にしかないのだから。
それなのに、何か……神秘的な現象……が、光子が検出器1に現れるのを妨げている。その現象は、光子が両方の経路を通ることができるかどうかに依存する。光子はどちらか片方の検出器にしか現れず、そこから光子は一度に一か所にしかないと考えたくなるのに。
図3
そうなると、実験結果の全体はずいぶん奇妙に思える! 結局、光子はAからCへ進むか、AからBへ進むか、どちらか一方のはずだ。(一つひとつが実在する粒子へ現実を分解しようと本能的に考えれば、そう思うだろう。)だが図3のように、どちらかの経路をふさぐと、違う実験結果が出始める!
まるで光子は、実際にはどちらか一方しか通らないと思えるのに、両方を通ることを許されていたがるようだ。そして、実際にそこへ行かなくても、経路をふさごうとすればわかる。そこへ行っていたなら、遮蔽物に当たり、どちらの検出器にも届かなかったはずなのに。
「実在」という言葉の普通の意味に反して、単なる可能性が因果的な効果をもつかのようだ……。
だが、実験の内部で起きていることの全体像がないのに、そんな結論へ飛びつくのは、少し早い。
図4
そこで、図232.4のようにAとCのあいだにセンサーを置き、そのつど光子が本当はどちらへ行くのかを調べようと思いつく。
すると、あの神秘的な現象が消える。
何ともおかしな話ではないか。気の毒な科学者は、どんな疑心暗鬼に駆られるだろう。
21世紀の私たちは、光子の履歴を「知る」には、脳を構成する粒子が、その履歴と相関しなければならないと理解している。光子の履歴と相関するごく小さな敏感な物体Sだけで、最終配置を区別して振幅の流れの打ち消し合いを防げるなら、デジタル表示つきのセンサー全体は、人間の脳は言うまでもなく、何秭もの粒子を異なる位置に置き、振幅の打ち消し合いを防ぐ。
だが、そのことがまだわかっていなかったら……。
センサーが神秘的な現象を追い払ったことを考え、こう思うだろう。
光子は、どちらの経路へも物理的に自由に行ければいいのではない。ふさがれていない道を進む小さな波ではない。そうなら、物理的に開いた経路があるだけで十分なはずだからだ。
違う……光子がどちらへ行ったか、私が知ってはいけないのだ。
その神秘的な現象は……神秘的なことをしている間、私にあまりよく見てほしくないのだ……。
現実に影響するのは、物理的な可能性ではない。認識上の可能性だけなのだ。光子がどちらへ行ったかを知ってしまえば、反対側へ行ったという考えは、もはやもっともらしくない。それが、BとDのあいだに遮蔽物を置くのと同じくらい効果的に、神秘的な現象を断ち切る。
いつも検出器2へ到達させるには、光子がどちらへ行ったかを観察してはならない。光子がBにもCにも行けた、と考えるのが理にかなっていなければならない。どの物理的経路を開け、どれを閉じるかにかかわらず、私が何を知れるかが決め手なのだ。
輪転機を止めろ! やはり心は根本的なものだった! 意識的な認識が実験結果を決めるのだ!
今も、この手のことが読める。物理学の教科書で。理論物理学者の過半数がそうではないと知っている今も。輪転機を止めろ。頼むから、印刷を止めてくれ。
後からなら明瞭に見える。だから振り返れば、この解釈は正しくないという手がかりがあった、と言うのは簡単だ。
たとえば、AとCのあいだにセンサーを置き、表示を読まなくても、神秘的な現象はやはり消え、光子はときどき検出器1に到達する。(いや、でも表示を読むことはできたし、今や可能性は実在するのだから……。)
だが、自分で作った科学的装置であるセンサーである必要さえない。粒子が一つ、十分に動かされれば、干渉は消える。二度と見えないところへ放射される光子でも、それはできる。人間はほとんど関わっていない。意識的認識も、ほとんどない。
人間の脳は物理的に特別だと二元論の火災警報を鳴らす前に、人間の研究者と同じように神秘的な現象を消す役割は岩には果たせない、と実験で証明すべきではないだろうか。
だが、これは後知恵だ。後から正解を言うのは簡単だ。当時生きていたら、ジョン・フォン・ノイマンよりうまくやれたと、本当に思うだろうか。この種の回顧的な分析の目的は、どんな広く使える一般的な手がかりをたどれたか、今の謎についても、似た手がかりを無視していないか、と問うことにある。
もっとも、振幅と配置の理論ができた後でさえ、しかも、その理論が、動かされる粒子なら何でも効果を生むとはっきり予測していたのに、初期の科学者たちがまだ理解しなかったのは、少し恥ずかしいことではある。
だが、つまり……配置は可能性であり、重要なのは認識上の可能性で、振幅はひどく奇妙な部分的情報であり、意識的な観察が量子らしさを消す、と常識として定着していた。そして、実験の予測が正しく出るかぎり、この話はあまり深く考えないほうがよい、と。