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配置を理解し、ひいては量子力学を理解する鍵は、配置が複数の粒子に関わることを、心の底から本当に理解することである。
図1
前のエッセイに続き、図1は、光子源BとCから二個の光子を同時にDへ向けて送り込む、実験の変形版を示している。
すると、開始時の配置は次のようになる。
「BからDへ進む光子と、
CからDへ進む光子」
今回も、開始時の配置の振幅を(−1 + 0i)としよう。
そして、(Dにある)半透鏡の規則は、直角の偏向ならiを掛け、直進なら1を掛けることだったと思い出してほしい。
そこで、各光子が偏向されるかされないかという四つの場合を別々に考えると、開始時の配置からの振幅の流れは次のようになる。
- 「BからD」の光子が偏向され、「CからD」の光子も偏向される。この振幅は、「DからEへ進む光子と、DからFへ進む光子」という配置へ流れる。流れる振幅は(−1 + 0i)× i × i =(1 + 0i)である。
- 「BからD」の光子が偏向され、「CからD」の光子は直進する。この振幅は、「DからEへ進む二個の光子」という配置へ流れる。流れる振幅は(−1 + 0i)× i × 1 =(0 − i)である。
- 「BからD」の光子が直進し、「CからD」の光子は偏向される。この振幅は、「DからFへ進む二個の光子」という配置へ流れる。流れる振幅は(−1 + 0i)× 1 × i =(0 − i)である。
- 「BからD」の光子が直進し、「CからD」の光子も直進する。この振幅は、「DからFへ進む光子と、DからEへ進む光子」という配置へ流れる。流れる振幅は(−1 + 0i)× 1 × 1 =(−1 + 0i)である。
さて――これは量子力学における非常に重要で根本的な考えである――場合1と場合4の振幅は、同じ配置へ流れている。Bの光子とCの光子がともに直進しても、ともに偏向されても、結果として生じる配置は一個の光子がEへ向かい、もう一個の光子がFへ向かうことである。
したがって、場合1と場合4から入ってくる二つの振幅の流れを足すと、総振幅は(1 + 0i)+(−1 + 0i)= 0となる。
最終的な三つの配置の上で、魔法の絶対値二乗比読取器を振ると、「検出器1に二個の光子」と「検出器2に二個の光子」の絶対値の二乗は同じだが、「検出器1に一個の光子と検出器2に一個の光子」の絶対値の二乗はゼロだとわかる。
実験というはるか上方の水準では、検出器1と検出器2が両方作動することは決してない。同じ頻度で、検出器1が二回作動するか、検出器2が二回作動する。(私が数学と物理を正しく計算できていると仮定しての話だ。実際に実験したわけではない。)
配置の同一性は、「Bの光子がEへ進み、Cの光子がFへ進む」ことではない。もしそうなら、場合1と場合4で結果として生じる配置は等しくならない。場合1は「Bの光子がEへ、Cの光子がFへ」となり、場合4は「Bの光子がFへ、Cの光子がEへ」となる。配置に光子を追跡する構造があれば、これらは区別可能な二つの配置になるだろう。
すると二つの振幅を足して打ち消すことはない。振幅を二つの別々の配置に保つことになる。総振幅の絶対値の二乗はゼロでなくなる。そして実験を行えば、(およそ半分の回数で)検出器1と検出器2がそれぞれ一個の光子を記録するはずだ。私の計算が正しければ、実際にはそうならない。
配置は、粒子がどこから来たかを追跡しない。配置の同一性は単に、「ここに光子、そこに光子、ここに電子、そこに電子」である。その状況へどう到達したかにかかわらず、同じ種類の粒子が同じ場所にあれば、同じ配置と見なされる。
「配置の構造はどんな種類の情報を組み込んでいるのか」という問いには実験上の帰結がある、ともう一度言っておく。現実そのものが配置をどう扱っているはずかを、実験から演繹できるのである。
古典的な宇宙なら、実験上の帰結は何もない。光子がどちらか一方へ進む小さなビリヤード球のようなもので、配置が、系のありうる状態についての私たちの信念であり、振幅ではなく確率があったなら、光子の起源を追跡しても、その情報を捨てても、違いは生じないだろう。
古典的な宇宙なら、二個の光子がともにEへ進む確率を25%、ともにFへ進む確率を25%、Bの光子がEへ進みCの光子がFへ進む確率を25%、Bの光子がFへ進みCの光子がEへ進む確率を25%と割り当てられる。あるいは、後の二つのどちらが起きたかを私個人は気にしないので、二つの可能性を一つにまとめて確率を足し、単に「各検出器が一個の光子を受け取る確率は50%」と言うこともできる。
確率なら、好きなように事象をまとめられる――可能世界の集合の周りに好きなように境界を引ける――それでも数値は同じように正しく計算される。互いに排他的な二事象の確率は、常に第一の事象の確率と第二の事象の確率の和に等しい。
しかし、モデル内で配置を恣意的にまとめたり分割したりして、同じ実験予測を得ることはできない。魔法の道具が教えるのは、絶対値の二乗の比である。二つの複素数を足すとき、和の絶対値の二乗は、各部分の絶対値の二乗の和とは等しくならない。
| Squared_Modulus(C1 + C2) | ≠ | Squared_Modulus(C1) |
| + | Squared_Modulus(C2) . |
たとえば、
| S_M((2 + i) + (1 − i)) | = | S_M(3 + 0i) |
| = | 32 + 02 | |
| = | 9 , | |
| S_M(2 + i) + S_M(1 − i) | = | (22 + 12) + (12 + (−1)2) |
| = | (4 + 1) + (1 + 1) | |
| = | 7 . |
あるいは、いま論じている実験では、(1 + 0i)と(−1 + 0i)の流れが打ち消し合い、足すと0になった。その絶対値の二乗は0だが、各部分の絶対値の二乗なら1と1だった。
魔法の道具が絶対値の二乗の代わりに、何らかの線形関数――F(X + Y) = F(X) + F(Y)となる任意の関数――であれば、量子的なものはすべて即座に消え、古典物理学に置き換わるだろう。(私たち自身の量子世界で、高い組織水準の内側から幻視する古典性と同じものではなく、異なる古典物理学である。)
振幅が単なる確率なら、流れが衝突しても打ち消し合えない。配置が単なる知識状態なら、好きなように組み直せる。
しかし配置はその場に釘づけにされ、物理法則を変えずには分割も併合もできない。
そして、釘づけにされているものの一部は、配置が複数の粒子を扱う仕方である。配置が言うのは「この光子がここ、あの光子がそこ」ではなく、「ここに光子、そこに光子」である。「この光子がここ、あの光子がそこ」は、「あの光子がここ、この光子がそこ」と異なる同一性を持たない。
今日の実験で目に見える帰結は、私たちの宇宙の物理学を、個々の同一性を持つ粒子に関するものとして因数分解することはできないということだ。
人間が完全に正常な量子物理学を理解するのに苦労する理由の一つは、人間が奇妙にも、現実を個別に実在するビリヤード球の和へ因数分解しようとし続けることにある。
はっ、はっ! 愚かな人間たちだ。