非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

法則から導かれる、見えないものへの信念

Belief in the Implied Invisible

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反ゾンビ論から一般的な教訓として学んではいけないことの一つは、「見えないものは存在しない」ということだ。

この一般則を結論として引き出したくなる。それを前提にできれば、今後、反ゾンビ論はずっと簡単になるだろう。だが残念ながら、それはベイズ的ではない。

私が光子を一つ、無限遠へ向けて送り出したとしよう。恒星や銀河を狙うのではなく、超銀河団のあいだの巨大な空洞の一つへ向けて。つまり標準的な物理学によれば、この光子は途中で何かにぶつかるとは予想しない。光速で進むので、追いかけてもう一度捕まえることもできない。

現在の宇宙論のとおり宇宙の膨張が加速しているなら、将来、原理的にさえ、その光子と相互作用できなくなる時点が来るだろう。それ以後、光子の未来光円錐が私の世界線と交わるとは見込めなくなる。たとえ異星人が光子を捕まえ、大急ぎで知らせに戻ってきても、加速する宇宙の膨張を補えるほど速く移動することはできない。

原理的にも相互作用できなくなるその瞬間に、光子が消えると信じるべきだろうか。

いいや。

それではエネルギー保存則に反する。熱力学第二法則にも。それ以外の物理法則にも、ほとんどすべて。そしておそらく、ロボット工学三原則にも。光子が、私がその光子を気にしていると知り、いつ消えるべきか正確に知っていることになる。

ばかげた考えだ。

だが、自分には実験で検出できなくなった光子が存在し続けると信じてよいなら、なぜそれは、見えないものを一般に信じてよいという許可にはならないのか。

(この問いを自分で考えたいなら、先を読む前に考えてほしい……。)

Googleで出典を見つけられなかったが、こんな話を読んだ覚えがある。夜空を流れるぼんやりした光の川は、何百万、あるいは何十億もの恒星からなるもので、天の川こそ私たちの銀河なのだと初めて提案されたとき、オッカムの剃刀が新説に反対するために使われたという。ほら、その仮説は、存在すると信じる宇宙の「存在者」の数を、莫大に増やしてしまうからだ。あるいは、望遠鏡に見えるぼんやりした光の染み、「星雲」は、恒星でいっぱいの銀河なのかもしれないという提案に対して、オッカムの剃刀が持ち出されたのだったかもしれない。

Lex parsimoniae: Entia non sunt multiplicanda praeter necessitatem.

これがオッカムのもとの定式化、節約の法則だった。必要以上に存在者を増やしてはならない。

誰もそれまで存在を信じたことのない何十億もの恒星を仮定すれば、存在者を増やしているのではないか。

違う。オッカムの剃刀には二つのベイズ的定式化がある。ソロモノフ帰納と、最小メッセージ長だ。どちらも、銀河が大きいというだけで不利に扱わない。

そうでなければ困る! 歴史の教訓の一つは、私たちが現実と呼ぶものは、いつも、さらに大きく、もっと巨大だと判明してきたことだ。地球が宇宙の中心だったころを覚えているだろうか。誰もアボガドロ数を考え出していなかったころは? 存在者が増えるたびにオッカムの剃刀が不利な判定をしていたなら、私たちはその剃刀を疑い始めなければならない。毎回、間違いだと分かったことになるのだから。

ソロモノフ帰納では、モデルの複雑さは、そのモデルをシミュレートするために書かなければならないコンピュータープログラムの、コードの量である。使うRAMの量でも、計算にかかるサイクル数でもなく、コードの量だ。何十億もの銀河があり、それぞれに何十億もの恒星があり、各恒星が十億×一兆×十溝ものクォークからなる宇宙のモデルは、実行に大量のRAMを使うだろう。だが、コードが記述すべきなのはクォークの振る舞いだけであり、恒星や銀河は勝手に動くに任せられる。ここは半ば比喩として話している。宇宙にはクォーク以外のものもある。だが要点は、すでに一つの銀河を記述しているなら、さらに十億の銀河を仮定しても、コードの長さには響かないということだ。もう少しRAMが必要なだけで、オッカムの剃刀はRAMを気にしない。

なぜか。ソロモノフ帰納とほぼ等価な、最小メッセージ長による定式化なら、原理がもっと分かりやすいかもしれない。宇宙のモデルの仕組みを誰かに伝えるとき、各銀河の各恒星の各クォークの位置を、いちいち指定する必要はない。いくつかの方程式を書くだけでよい。その方程式に従う「もの」の量は、方程式を書くのに必要な長さに影響しない。方程式をファイルに符号化して100ビットになったなら、ほぼ同じファイル長の別のモデルが2100個あり、およそ100ビットの支持証拠が必要になる。確率の総量は限られており、事前には、それを送りうるすべてのメッセージに分けなければならない。だから、2100個の選択肢からなるモデル空間から一つを仮定するなら、事前確率2−100という不利を受け入れなければならない。だが、銀河が多いからといって、その不利が増すわけではない。

何十億もの銀河の中に何十億もの恒星を仮定しても、それらすべての銀河の全体的な振る舞いを記述するメッセージは長くならない。したがって、同じ方程式がもっと多くのものを記述しても、確率上の不利はない。(モデルの予測の成功が、正確な初期条件に敏感でないかぎりは。うまく予測するのに、すべてのクォークの正確な位置を指定しなければならないなら、追加のクォークは不利に数えられる。)

見ていなくなったら光子が消えると仮定するなら、それは宇宙のモデルに法則を追加することだ。節約の法則のもとで、費用のかかる「存在者」なのは、法則のほうだ。追加のクォークは無料である。

では結局、「どこへともなく飛び去る光子が存在し続けると信じるのは、消えるより存在し続けるほうが単純だと、私の事前確率が言っているからだ」ということになるのか。

初めは私もそう思ったが、考え直すと、少し違う。明らかな悪用に道を開くから、というだけではない。

私は、法則から導かれる、見えないものを信じることと、付け加えられた、見えないものを信じることの区別だとまとめたい。

無限遠へ飛び去る光子が存在し続けると信じるとき、それを追加の事実として信じているのではない。

あなたが信じる、つまり確率を割り当てるのは、単純な方程式の組だ。その方程式が宇宙を記述すると信じている。信じるのは、それが証拠を記述するために見つけられた最も単純な方程式だからだ。これらの方程式は、実験で非常によく検証できる。過去に見られた巨大な証拠の山を説明し、未来の多くの観測結果を予測する。

その方程式を信じており、光子がどこへともなく飛び去りながら存在し続けることは、その方程式から論理的に導かれる。だから、それも信じる。

事前確率は、あるいは確率そのものさえも、光子について直接述べてはいない。確率を割り当てるのは光子ではなく、一般法則だ。私たちが知る物理法則に確率を割り当てると、どこへともなく進む光子が存在し続けることにも、自動的に同じ確率を与えることになる。自分の信じることから論理的に導かれることも、信じるのなら。

見えないものについて推論し、見えないものをそれ自体として信じるのではない。実験的証拠が特定の法則を支持し、その法則への信念から、相互作用できない特定の存在者が論理的に導かれるのだ。これが、法則から導かれる、見えないものへの信念である。

一方、空飛ぶスパゲッティ・モンスターが光子を食べて消してしまうと信じるなら、今回だけだとしても、あるいは、途中で光子が塵の粒にぶつかったと、根拠もなく信じるだけでも、見えない特定の余分な出来事を、それ自体として信じていることになる。その種のことが一般的に起こると思うなら、見えない特定の余分な法則を信じていることになる。これが、付け加えられた、見えないものへの信念だ。

法則から導かれる見えないものを、ときには考えたくなる理由を明確にするため、光速に近い宇宙船を遠い超銀河団へ送り出すとしよう。宇宙船が着いて植民地を築くころには、宇宙の膨張は加速しすぎていて、二度と通信を返せない。その地で幸せに暮らす人々のためだけに植民地を築く、純粋に利他的な努力には価値があると思うだろうか。それとも、宇宙船は着く前にふっと消えてしまうと思うだろうか。これはいつか、とても現実的な問いになるかもしれない。

確かに、相互作用できないものの存在を、一度できっぱり排除できれば、話はずっと簡単になる。望遠鏡で見える端で、宇宙の存在を終わらせればよい。だが、そのためには、かなりばかげた考えをしなければならない。

見えないものについて、別立ての追加の信念が必要になることはないはずだ。信じるのは、それ自体が検証可能な一般法則から論理的に導かれる見えないものだけであり、そうした場合にも、目に見える形で検証できる一般則から導かれない、さらなる信念は持たない。この原則を正しく適用すれば、見えないものを信じることの悪用は、実際すべて排除できるように思える。

「信じるな」ではなく、「付け加えられた見えないものには、変更していない事前確率を割り当てよ」と言うべきなのかもしれない。だが、信念とは証拠の面で何か追加されたもの、わざわざ追跡し、支持材料や反対材料を数えるものだと考えるなら、付け加えられた見えないものについて、追加の信念を持つべき場合が本当にあるのかは疑わしい。

理論上この原則を破る、奇妙な例はある。(たとえば、随伴現象的な悪魔があなたを見ていて、「ニブリック」と一度でも言ったら、決して確かめられないどこかで、3↑↑↑3人を一年間拷問する、とか。)だが、人間の実践でこの原則が破れる例は、私には思いつかない。