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「外は雨が降っているが、私はそうだとは信じていない」と言うことは、一般にムーアのパラドックスと呼ばれている。教えてくれたMetaFilterのpainqualeに感謝。
Less Wrongのコメントをいくつか読んで、ムーアのパラドックスが少しよく分かった気がする。Jimrandomhはこう指摘している。
多くの人は、間接性の階層を区別できない。彼らにとって「私はXを信じる」と「X」は同じことだ。したがって、Xを信じるのが有益である理由は、Xが真である理由にもなる。
私は、これは正しくないと思う。かなり幼い子どもでも、誤った信念を持つという概念は理解できる。それには、地図と領土を別々の心の入れ物に入れておく必要があるからだ。しかしこの指摘は、それに似た別の考えへと道を示している。
多くの人は、何かを信じることと、それを支持することを、意識的には区別していないのかもしれない。
そもそも「私は民主主義を信じる」というのは、日常の言葉では、民主主義という考え方を支持するという意味であり、民主主義が存在すると信じるという意味ではない。つまり「信じる」という言葉には複数の意味がある。私たちが見ているのは、混乱した思考を引き起こす混乱した言葉なのかもしれない。あるいは、もともとある混乱を映しているだけなのかもしれない。
すると、もとの例にあった「私は、人々は実際以上に親切だと信じている」という発言は、こう説明できる。彼女は、健康によいといった、人々は親切だと信じることの利点をいくつか思いついた。その結果、「人々は親切だと信じること」に温かい感情を抱くようになったので、その感情を内省して、「私は人々が親切だと信じている」と結論した。つまり、引用符に包まれたその信念に付随する好意的な感情を、その命題を自分が信じていることのしるしと取り違えたのだ。同時に、世界そのものを見ると、人々はそれほど親切ではないように思えた。そこで「私は、人々は実際以上に親切だと信じている」と言ったのである。
そしてこれは、悪意のない間違いに近いものでもある。ある意味では。何かを信じているとき、それをどう見分けるかを、人は明示的に教わっていないからだ。ガレージの中の竜の寓話と同じである。「私のガレージには竜がいる。ただし目には見えない」と言う人は、竜は見えないだろうという自分の予期が、竜のいない(正確な)モデルを自分が持っているしるしだとは気づかない。
人は、何かを信じていることを見分ける訓練を受けているわけではない。高校でこんなふうに教わるわけではないのだ。「何かを実際に信じている、つまりその文が自分の信念の集まりに入っているときの感覚とは、世界はただそのとおりであると感じることです。この感覚を見分けてください。これこそ実際の、引用符の付かない信念です。一方、ある信念を信念として意識しながら、それに好ましい感情を抱くこととは、区別しなければなりません。その場合、その信念は引用符に包まれています」
こう考えると、現実に起きたこのムーアのパラドックスの例も、かなり理解しやすくなる。そして、人が正しくもあり、間違ってもいる状態になる、もう一つの仕組みが分かる。
同様に、Kurigeはこう書いた。
私は神が存在すると信じています。そして神は、身の回りの世界を評価できるよう、私たちに善悪の感覚を植えつけたのだと信じています。また、道徳感覚は進化によって私たちに組み込まれたとも信じています。その道徳感覚は、おそらく、はるか遠い昔にボノボの集団でメタ政治的な連合が形成された結果でしょう。この二つの信念は矛盾しませんが、両者をどう両立させるかは複雑な問題です。
Kurige、あなたは、神が私たちに善悪の感覚を植えつけたという、引用符に包まれた信念を支持する理由があると判断したのではないだろうか。そして科学の結論を支持する理由もある、と。どちらも、仲間になるには良い共同体に思えるのだろう? どちらの信念体系にも利点があるのだろう? 内省すると、どちらの信念にも好感を抱いているのが分かるのだろう?
しかし、あなたはこうは言っていない。
「神は私たちに善悪の感覚を植えつけた。また、道徳感覚は進化によって私たちに組み込まれた。現実のこの二つのあり方は矛盾しないが、両者をどう両立させるかは複雑な問題だ」
Kurige、これを読んでいるなら、すぐに上の文章を声に出して言ってみてほしい。改めて理屈をつけて正当化する手間をかける前に、こちらは少なくとも少し受け入れにくく感じる、と気づけるように。主観的な違いに気づいてほしいのだ。
これが、二つの異なる信念を支持する理由を持つことと、たった一つの世界、たった一つの現実のあり方について心のモデルを持つこととの、主観的な違いである。